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ブリーデン選手のこと

 南日本新聞の小さな記事でブリーデン選手が亡くなったことを知る。

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 僕が小学3−4年生、1976年から77年頃の話である。草野球が放課後の楽しみで、普通に野球選手になろうと思っていた小学生だった。テレビでは「巨人の星」や「侍ジャイアンツ」の再放送が夕方にあり、水島新司も全盛期で「ドカベン」「野球狂の詩」など数本の連載が同時進行していた、そんな時代。当時小学生であれば、野球はブームではなく、避けられない自然現象としてそこにあった。
 父は大の阪神ファン。当時、国立で暮らしていたのでテレビ放送はジャイアンツ戦ばかり。だが、UHFのアンテナを立て、うまく微弱な電波を捉えることが出来れば、テレビ神奈川の放送が東京でも観られるのだ。テレビ神奈川は、積極的に大洋ー阪神戦や、ヤクルトー阪神戦を放送していたのだった。野球中継を観たいがために、父は立川のデパートでアンテナを買って、自ら屋根に登り設置した。僕は部屋の中で受信状況を確認する係を担当したのだった。土曜か日曜の午後の思い出だ。(職員住宅住まいだったので、自由にアンテナを増設して良かったのかどうか、今さらながら、疑問として浮かび上がってきた。)
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 父に連れられて、弟と神宮球場に出かけてヤクルトー阪神戦を何度か観たことがある。外野席の料金は、子供は確か50円とか、そんな値段だった。今考えてみると父にとってもコスパの良い子供との過ごし方だったのだと思う。当時は、試合開始の何時間か前に行けば、球場の周囲にある練習場で、選手に身近に触れることが出来た。いざ試合が始まってしまえば、グラウンドで活躍する選手を遠くで眺めることしか出来ないが、この練習場では選手に話しかけることも可能だった。仕切りもなく、ちょっとしたネットが張られていただけだったと記憶している・・・。昭和の時代は、こうした境界線の曖昧さ〜「ゆるさ」に支えられていた気がする。
練習場から選手がいなくなると、僕たちも外野席へと入った。当時の神宮球場は電光掲示板もなく、外野席と言えば一部を除いて芝生だった。(人気番組「プロ野球ニュース」では、この芝生でいちゃつくカップルが映し出されることが「珍プレー好プレー」のお決まりコンテンツだった。)
その日は、芝生ではなく座席に腰掛けていた(と思う)座席というよりは、コンクリート製のベンチだったかも。ほどなくして、阪神の選手がグラウンドで練習を始めた。何気なく見ていると、バッターボックスにブリーデン選手が立って、カキーン!と心地よい音を立てながらバットを振っていた。 

そしてなんと!

 こともあろうか、そのホームランボールが我々の目の前に飛んできたのである。手前でバウンドして、丁度いい角度で父の手に収まった!練習時のホームランボールは係員に返さなくてはいけないのではないか?と思うまもなく、「そのボールを売ってくれ!」という人たちに取り囲まれてしまった。父は頑なに拒否して、そのボールは宝物として家に持ち帰ったのだった。

 2021年5月3日に、このブリーデン選手は76歳で亡くなったそうである。日本でプレーしたのはわずか3年間だったのか?とネット記事を見て知った。この当時は、ラインバック、掛布、田渕などがクリーンナップを務めており、自分にとっては阪神に一番興味があった黄金時代である。本当に懐かしい。
今では野球中継を見ることはニュースのスポーツコーナー程度になってしまったが、ルールがわかるから、それなりに楽しむことはできる.。しかしながら、昭和の野球とは何かが根本的に違うと感じることも多い。

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 この思い出について、先ほど八王子で暮らす弟にメッセージを送ったところ、「変色しているものの、まだそのボールを持っている」とのことだった。そして、バッティングピッチャーが山本和行であったことも追加の情報として得られた。二つ下の弟の記憶にも、やはり鮮明に刻まれていたのだった。
 ブリーデン氏が亡くなったことで、亡き父との思い出も蘇ってきた。今日のうちに記録しておこうと思い書いてみました。

 小学生だった自分に夢を与えてくれたブリーデン選手、謹んでご冥福をお祈りいたします。

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