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ナゲキバト

先日伺った新庄村で、
森本二太郎さんからの推薦で
この本を知りました。
神さまに祈ることの意味を
深く考えさせられました。

主人公ハニバルは、幼くして両親を交通事故で亡くします。
そして祖父に引き取られ、そこに育ちの場を得ました。 
人は人生の多くの場面で、死という悲しい現実と
向き合うこととなりますが、
ハニバルの生活もまた、その繰り返しでなのです。

こんな印象的なやりとりが描かれています。
大切な子牛が死にそうになる場面です。
「神さまにお祈りしたんだよ、オスカーを助けてくださいって。
 もしも死んじゃったら、二度と神さまなんか信じない!」
泣きながら私は訴えた。
祖父はしばらくだまっていた。
「なるほど。 ものごとが自分の都合のいいように
 運んでいるときだけ、信じるというわけかい?
 神さまをどこかへ追っぱらおうったって、
 そうはいかないよ。」
そのとおりだとは思っても、幼い私はとてもがまんができなかった。
「母さんと父さんのときだって、死なせないでって祈ったけど、
 死んじゃったんだ」
「わかるよ、ハニバル。 わしも、そう祈ったからね。
 だが、願いどおりにならなかったからといって、
 神がいないということにはならない。
 もしも、だれの祈りもかならずかなえられるというのなら、
 この人生にはたいして意味がなくなってしまうよ。
 ただ祈りさえすれば、つらいことも、にがい後悔も、
 たちどころに消えてしまうというんじゃな。
 そういうのは生きてるうちに入らないとわしは思うね。

 なにかをして、たとえ苦しくともその結果をひきうける。
 それが人生だ。そういう経験をするために人間は生まれてきたんだ。
 苦しいことがなにもない人生なんぞ、無意味だよ。
 わしら人間は、祈るなら、
 苦しいことの意味を理解するのを助けてほしい、と祈るべきだ。
 苦しいことを取りのぞいてほしい、と祈るのでなくね。」


これを読んで思い出したことがあります。
ユダヤの民の中には、あのホロコーストの後、
彼らの神が民を見捨てたと思い込み、
信仰を棄てようとするものが相次いだそうです。
彼らに向かって哲学者エマニュエルレヴィナスはこう言いました。
「あなたがたは善行を行えば報償を与え、悪行を行えば懲罰を下す、
 そのような単純な神を信じていたのか。
 だとしたら、あなたがたは「幼児の神」を
 天空に戴いていたことになる。
 だが、「成人の神」はそのようなものではない。
「成人の神」とは、人間が人間に対して行ったすべての不正は、
 いかなる天上的な介入も抜きで、
 人間の手で正さなければならないと
 考えるような人間の成熟をこそ求める神だからである。

 もし、神がその威徳にふさわしいものであるとすれば、
 神は人間に魂の成熟を求めるはずである。
 すなわちそれは、神の不在に耐え、
 人間が人間に対して犯した罪の償いを
 神に委ねることをせず、自ら解決しようとする
 人間の存在を求めるということである。」

 神さまが、祈りに応えられない理由が語られています。
 そもそもわれわれは、生まれながらにして
「自分の力で物事を判断し、解決する力を持っている」のです。
 なぜならば、聖書の神さまは、ご自分の姿に似せて
 我々を創造されたのです。
 だからこそ、そんな似姿としての人間の成熟に期待しています。 
 わたしたちは、神さまの類比としての存在なのです。
 主客は明らかに転置されています。
 人間が自分の都合で神さまを造ったのではなく、
 神さまこそがわたしたちを創ったのです。

 ナゲキバトを読んで、改めてそのことに想いを馳せました。

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