2011.3.11 あの日の体験

当日に書けよ!と突っ込まれそうな気がするが、僕はそこまで「当日」にこだわりたいわけではないので、なんでもない日に振り返ってみて書こうと思った。福島の内陸の人間が考えるに、本当に大変だったのはあの日以降だからこの日付けにこだわりたくはない。

その一方、その日の自分の体験を伝えていくのも重要であるとも思っている。

僕は当時小学三年生、9歳であった。

14時46分、本当であれば授業終了後の時間であったが、その日は算数の授業が長引いていた。

はやく終わらないかなーと思いながら算数の授業の"まとめ"を考えていた(当時の先生はまとめを生徒に任せていた)。

そして地震発生。初めて経験するような揺れだったと思う。机の下にもぐったが、机の脚を握りながらでないとダメだった。

金魚を飼育していた水槽からは水がこぼれ、さらにはストーブの上の桶にためてあたためていたお湯も揺れでこぼれた。そのお湯がともだちにかかりそうになって慌てて先生が机ごと動かしたのは記憶に残っている。 体育教師で力のある先生でよかったと思う。

どれほど時間がたったのか分からない。いつの間にか停電していたらしい。揺れが止まらない中、教務主任の先生がやってきて「避難!」と言った。言われるがまま校庭に避難した。

校庭に集まったが、泣いている人、騒いでいる人など、先生も生徒も落ち着いていなかった。校長は「携帯の地震速報がうるさいくらいに鳴っていた」と言っていた気がする。

当の僕はというと、「震源はこの下だったんじゃないのか」とか言っていたと思う。今思えば恥ずかしい話だ。そんなことあるはずがない。しかし当時その地震が宮城県沖であったことなど知らなかった。そして、そう言って(言い聞かせて)おかないと大きな揺れの恐怖に負けそうだったことも事実なのかもしれない。

大きな揺れはおさまったが、小さな揺れはまだあったと記憶している。そんな中帰宅のため荷物を取りに教室に戻った。皆なんか騒がしかった。教科書やノートなどをランドセルに詰めこみ、再び校庭に並んだ。思えば、3年生の教室に入ったのはこのときが最後になった。

帰るのか、帰らないのか。よくわからない状態のとき、自分の親をはじめ、多くの保護者がやってきた。ちょっと安心した。

この後、「家に誰かがいる」という条件の人は集団下校するよう指示された(この判断、後々叩かれたらしい)。もちろん、僕も帰宅可能だ。

途中何があるかわからないので、先生(とうちの親)の引率で下校した。途中、家の壁が落ちて道路に散乱していたり、塀も崩れたところがあった。すごい地震だったのだと感じた。

(帰宅直前ひと悶着あったけど割愛)

家についたとき、よく家に来てお茶を飲んでいたおばちゃんがじいちゃんと何も無かったかのようにお茶を飲んでいた。それをみて驚いたとともに、どこか安心した気持ちになった。

家の中に上がったとき電気が止まっていたことにやっと気づいた。本当は揺れている最中に電気は止まってしまっていたらしいが、全く気付いていなかった。当然テレビもつかないし、寒いときに必須となるファンヒーターもついていない。雪も降りだし、寒くなってきた。

その後コンセントの要らない石油ストーブを物置から引っ張り出して暖を確保し、庭の畑に穴を掘ってトイレ代わりにした。

ほどなくしてガス屋さんが来て点検していった。都市ガスではなくプロパンガスだったので問題なく使うことができた。そのおかげで「鍋でご飯を炊く」ということができ、食事にはさほど困らなかった。

日は沈み、真っ暗になった。ろうそくと懐中電灯の明かりしかない。時折余震が起こる。

僕は夜になってから急に体調が悪くなった。当時も体が弱く、体調不良はよくあることだったが、”いつもと異なる”ことの連続で疲れてしまったのだろう。余震におびえつつ、僕はその日眠った。



以上が2011年3月11日の記憶である。翌日の記憶ももちろんあるが、そこはだんだん薄らいできている。12日以降はまた次回。

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