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決定版資料による「なぜ“戦争の旗”『旭日旗』が復活したのか」

このような記事が目に止まった。韓国の『旭日旗』に対する過敏な反応は今に始まったことではないが、それはそれとして私は個人的にごく素朴な疑問として「なぜ敗戦後廃止されたはずの旭日旗が復活しているのか」というものがあった。

普通に考えて本来の国旗である日章旗とは別に太平洋戦争で日本があらゆる戦地で翻していた『旭日旗』は当時の他国からは『敵の象徴』であろうし、この図柄の出番が『ハレの日』や縁起を担ぎたい『戦いの場面』である事は以前何かで確認していたし、文献によると1870年(明治3年)には「陸軍御国旗(軍旗)」として初めて旗化され、それ以降は完全に『軍旗』として使われてきた旭日旗は確固たる『戦いの旗』だ。

——1945年の8月15日に日本の戦争は終わった。日本にはポツダム宣言を執行せんと『連合国軍最高司令官総司令部(以下GHQ)』が設置された。この存在は簡単に言えば日本が戦争に至る要因となったもの総ての排除・修正及び戦争と再軍備に関わらない国にするのが目的であった。その本気度はそれまで『現人神(あらびとがみ)』であった天皇陛下を『象徴』という人間にしてしまったことからもわかる。

——ここで一旦私のスタンスを示したい。私個人は『自衛隊』は『国防軍』と名を変え正式に『軍』に、憲法9条の2項は削除すべきと考えている『普通の国家』をめざしたいと願う者だ。ただし国家権力の暴走には慎重に監視をすべきと思っている。

話を戻す。当然GHQは日本の軍を解除し、ここで軍の御国旗であった軍旗『旭日旗』は役割を終え廃止された。まずこの事実を殆どの日本人は知らない。

しかしそんなところに1950年6月25日『朝鮮戦争』が勃発、日本駐留の米国兵力の殆どが朝鮮半島に動員された。そこでの懸念はその間隙を縫って極東ソ連軍が日本に攻撃をしてくるのではないか——という事であった。

そこでGHQは日本国憲法第9条をもってして「日本は軍を持たない」としたにも関わらず喫緊に威力は必要と「張子の虎でもいいから軍らしきものを創れ!」となり「警察予備隊令」を出した上で、1950年8月10日「警察予備隊」がスタートする、のちの『自衛隊』だ。ここで現実的に微妙な事実として『海上警備隊』として編成された人員は(仕方がないにしても)それがほぼ全員『大日本帝国海軍』出身であったという事で、これは手塚正巳の著作『凌ぐ波濤』に詳しい。

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そして、さらにこの書籍の引用元が水交会が元帝国海軍有志向けに編纂された『聞書・海上自衛隊史話』で、私の今回の議論はこれを元にしている。そして現在『旭日旗』のWikiページに関する引用はほぼこの書籍に依るものだ。「聞書」の名の通り当事者からの話を紡いだ「決定版」と言える貴重な証言集だ。

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ここに挙げた2冊は海上自衛隊を宣揚する趣旨であるから、その意味で現代の視点でみるとぎょっとする箇所がある。例えば海上自衛隊以前は『海上警備隊』としてスタートし、この当時は隊で決めた『海上警備隊旗』というものがあり以下のような桜を中心に据え「日本の主な海峡が7つあることから7本の横ストライプをあしらっており、色の面では「白=友愛」「青=良識」「赤=精強」を象徴とし警備隊のモットーをこの旗に代表させた」ともある。

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目に留まるのはこの警備隊旗の図案に関しGHQに報告した際、米海軍フレック中佐より指摘が入った事実だ。

「旗の桜の花びらの芯のところにある白色の放射状の模様は、旧日本帝国海軍の軍艦旗の旭光を表し、旧日本海軍のルーツを再現せんとする意図があるのではないか」(160P)と怖い顔をしたという。これに対しよく説明して、すぐ納得してもらい、笑い話になったとか。当時は、何かと再軍備云々がかまびすしい時代であった

——と軽く書いてあるがGHQはそこまで廃止した「旭日旗の復活」に神経を尖らせていたという動かぬ証言でもある。

そして1952年4月28日にGHQはその役割を終えるが、早速その翌年から蠢動がある。

1953年9月27日の自由党、吉田茂総裁と改進党、重光葵総裁との会談で、保安庁法を改正して、直接侵略にも当たり得ることが了解され、防衛庁、自衛隊創設の機運が高まり、その研究が本格的に始められ、その性格任務等に応じた編成組織、旗章、服装なども全面的に見直されることになった(160P)

「目の上のたんこぶ」GHQが日本から去り、国連の存在はあるものの、自由になった事から再軍備の香り漂う動きが出始める。ここで驚くのは「直接侵略にも当たり得ることが了解され」の箇所だろう。日本国憲法は1946年に公布済なのであるが、第9条は念頭にないのだろうか。ただし今回はここには触れない。

旗章については、自衛隊の旗として陸上は連隊旗、海上は自衛艦旗という概想が1953年11月ごろ生まれた。第二幕僚監部では次のような方針で研究を進める事にした。

1.現在の警備隊旗に代わる新しい旗章を制定する            2.内部から広く意見を徴するとともに、図案を募集する。        3.学者や画家その他広く部外の人の意見を聞き、参考にする       4.研究に当たっては内部部局及び第一幕僚監部と連絡を密にする。

——と検討が始まり多彩な案が出てはいたが、なかなか決まらない(というか、決めない)そこで米内穂豊画伯に依頼する事にしたのだが、そこでこう依頼する。

「旭光を主体とする新しい自衛艦旗の図案」(162P)

「馬脚を現した」と言いたくなるが、ここで「旭光再現指定」になっている。依頼の目的は「自衛艦旗」であるし、この時点で依頼された画伯の脳裏に『旧日本帝国海軍の旭日旗』が浮かばぬ筈がないだろう。

そしてそんな『旭日旗』をよそに置き「“旭光を主体とした”別なデザイン」を描く判断が出来ただろうか。暗に画伯へ察することを求めたのか、秘密裏に「結論は決まっているので形だけでも引き受けて欲しい」と、後から出た結論から振り返ると何らかの通達があったのかも知れないが、これはあくまで憶測だ。

結局画伯は旧軍艦旗を参考に見せて欲しいと所望し採寸など検討の結果こう返答する。少々長いが肝心なところなので引用する。

麻生課長が伺うと、米内画伯は威儀を正して「旧海軍の軍艦旗は、黄金分割によるその形状、日章の大きさ、位置、光線の配合等実に素晴らしいもので、これ以上の図案は考えようがありません。それで旧軍艦旗そのままの寸法で図案を一枚書き上げました。これがお気に召されなければご辞退致します。ご迷惑をおかけして済みませんが、画家としての良心が許しませんので……」とのあいさつであった。
麻生課長は頭から電気を打たれたような感動を覚え、「新しいものを考えていただいてありがとうございました。旧軍艦と同一といわれるかも知れませんが、新しいものを追求して、その新しいものが旧軍艦旗と一致したのですから私は満足です。これが自衛艦旗として採用されるかどうか分かりませんが、上司に報告致します」と礼を述べて図案を持ち帰った。

また、後日米内画伯は「東郷」誌(昭和44年4月号)へ『デザインとしての自衛艦旗』として「当時を振り返る」として以下のような寄稿をしている。ちなみに「東郷」誌とは「東郷神社」の崇敬者の集まりである「東郷会」の会報である(発足時の初代会長は吉田茂元総理大臣)

「第一感として脳裡に浮かんだのは、かつての軍艦旗である。夜、床についてからも、新しいデザインを考えようとするのだが、何としても軍艦旗が離れぬ。これには参った。もともと絵と言うものは一つの想念がまず頭にあり、それが醗酵するにつれ次第に構図も色彩も明確の度を増し、細部に至るまで脳裡に描き上げてからはじめて現実の筆をとるものであるが、今回のようにはじめから軍艦旗という御手本が頭から離れなくては、とても新しい想念も浮かびようもない」

加えてこう続く

「これは画ではなく、旗である。旗は停止したデザインとして眺められるのではない。大海原や空をバックに、風にはためき動く生きものである。時に風やんで垂れ下る時は、デザインは半分しか見えぬこともあろう。こうした千差万化を予測して、なお気品ある美しさが常に保たれるデザインでなければならぬ。駿馬の駆ける姿がどの瞬間も美しいように、艦旗もまた常に艦旗そのものでなければならぬ。こうした観点から軍艦旗を想起すると、静動ともに毅然たる美しさがあり、かつ色彩的には、青い海にも白い雲にも実にぴったりする」

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米内穂豊画伯のそれまでの作品は日本の古典童話や戦国武将もの、戦時中に及んでは国威宣揚色の強い雑誌に掲載など、その意味でも望む人選に適ったのだろう。それにしてもこれらの長々とした経緯自体「旭光を主体とした」と依頼し『旭日旗』をちらつかせたことから『旭日旗賛美』に尽きており、「やっぱり旭日旗しかない」と結論づけするための「誘導」にしか見えない。

そして結局旧軍艦旗そのものを最終決定案とするに至っている。

内部でも「相当の抵抗はあるかも知れないが」(164P)とあるが自衛隊旗(八条旭日旗)は満場一致で、自衛艦旗は二時間の議論があり「国民感情などを考慮した」とあるが、なんら民意を問うプロセスも存在しおらず、ここでも改めて「旭光を中心とした点で保安庁としての思想は一致しており」ともう方向性はしっかり『旭日旗の復活』なのであろう。

結局1954年6月に吉田茂首相はこの自衛艦旗を承認したのだが、ここでは

「世界中で、この旗を知らない国はない。どこの海に在っても日本の艦であることが一目瞭然で誠に結構だ。旧海軍の良い伝統を受け継いで、海国日本の護りをしっかりやってもらいたい」(165P)

と述べているが、なんら具体的に『旧日本海軍のルーツである旭日旗の復活』を弁明できる発言ではない。もとより吉田総理は前述の『東郷会』の初代会長を務めた人物であるが、改めて今回客観的にこのプロセスをみても米海軍フレック中佐より釘を刺された事も完全に無視し『旭光』にこだわり——というより結論は決まっていて、いかに時間をかけて検討した結果とみせるかに腐心した——つまり「アリバイ造り」に見えてしまう。それもGHQ解散翌年に「鬼のいぬまに」とばかりに動き出した姑息ささえ感じとれてしまうのだ。

——だが、仕方がない。今回の海上自衛隊の構成員は旧大日本帝国海軍なのだから自らの士気を一番に高めるシンボルはやはり『旭日旗』なのだろう。日本人同士で決めてしまえば結果はすでに出ていたのかもしれない。

ただし韓国や他国から『旭日旗』を指摘された場合に今回の決定プロセスは、正直「不正」に近い。私もいち日本人としても『旭日旗』は誇れるものではなくなった。

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また『旭日旗』Wikiの英語版『Rising Sun Flag』では1952年4月28日に廃止された筈のGHQが自衛艦旗として復活した旭日旗を1954年に承認したかのような記述があるのだが、私の読み間違えだろうか?

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