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かつて21年前に、自分が「グラドル番付」を始めた経緯を書いてみる

 いまや、グラドル記事企画では定番ともなっている「■■番付」。『週プレ』の定例企画が昨今では一番馴染み深いと思われるが、その企画を最初に誌面で行なったのは自分だ。時は2000年夏、いまから21年前のこと。新たに仕事をさせてもらうようになった月刊誌『ヴァッカ!』(バウハウス)の4ページアイドル企画で始めたのが最初。

 ただし、企画、執筆の過程で、『番付』という最終体裁を考えたのは自分ではない。同誌編集長のM氏だった。元々、自分の頭の中でアイドル評論家の北川昌弘氏が長きにわたって行なっていたランキング企画&ムック本「アイドル探偵団」があり、当初の企画案は「グラドル探偵団」だった(笑)。ベスト50だったかベスト100だったか、ランキング表を作り、M氏に見せたところ、「こういうランキングモノはいいね。でも、ただのランキングじゃなく、番付にしない?」。相撲にはほとんど関心のない自分で、想定外の意表突く提案に少し戸惑ったが、氏の「1位を2人作れるから、事務所対応でもなにかあったとき具合がいいと思う。それで行こう!」の進言で納得。かくして、企画は決まった。

 第1回の初場所は、同誌8月売り号(月号的に10月号か)。あいにく手元にその雑誌がないので、大関以下の顔ぶれは完全に忘れているが、横綱は眞鍋かをりと川村亜紀。張出横綱として、釈由美子と酒井若菜。優香は親方ということで文面で掲載。正直、自分の中では、この4人を並べた時点で、この企画は今後も行ける! と確信を持った。第2回(2001年春)の横綱は、井川遥、小池栄子、眞鍋かをり、川村亜紀で、その確信はさらに揺るぎないものとなった。

 細かいことだが、「グラビアアイドル番付」ではなく「グラドル番付」という名称にこだわったのは自分だ。いまでこそ、“グラドル”という呼称は一般化していると思うが、当時は実はそうでもなかった。アイドル関連の雑誌編集者でも「グラドル」と会話にスラっと出てくる者は少なく、口に出てもイントネーションがマチマチだった(自分は当初から平板な発音)。編集部としては、わかりやすい「グラビアアイドル番付」で行きたかったフシも見られたが、自分としては簡潔で語感もいい「グラドル番付」を押し、結局それで行くことになった。それでも表紙に特集名が載る際は、序盤の数回、「グラビアアイドル番付」になっていたような記憶もあるが……。

 結果的に「グラドル番付」は掲載誌の変更もありながら、基本年2回特集で15年ほど続いた(もうちょい続いたか。記憶が完全に曖昧)。その間数回、番外編で「巨乳グラドル番付」や「着エロ番付」なども行なったはずで、やはり、自分にとっては愛着の深い思い出深い企画と言える。歴代の横綱の顔ぶれを見ると、藤川京子や浅尾美和が名を連ねていたり、晩年では一度に6人も選ばれるなど迷走(らしきもの)が多々見られる。一方で、熊田曜子や小倉優子は横綱に一度もなっておらず(大関止まり)、そのあたりは本家同様、一度横綱にしたら落とすことはしない、入れ替わりは横綱の親方への移行をもってと決めたせいで、あくまで横綱になった者優先による結果。いまにして思えばそこまで厳格化しなくてもよかったかといった思いもある。仮に年4回の企画だったら、顔ぶれ事情は微妙に違っていたようにも思われる(前述の藤川京子や浅尾美和の抜擢は出版社事情、雑誌の売り上げ事情を反映させたもの、といまだから言える。いや、藤川はマジの抜擢だったか?)。

 はたして、自分の「グラドル番付」がどこまでシーンに影響したかはわからない。ただし、某事務所のマネージャーが番付をコピーしたものを使って各媒体へ売り込みに行ったという話や、後年、ネット上で倉持由香が「載せてもらえるようにがんばります!」と言ってくれたり、何人かの子がSNSで言及してくれるなど、コツコツほぼ1人で続けてきた身としてはそのたびに大きな励みになった(特集内の囲みコラムで、中野もんじゃ屋『ペンギン村』の店主にして、「ジ・アウトサイダー」複数出場の格闘家にして、大のグラドル通の織田正一氏と人選や対談やったことも。なお、名前が妙に似ているが偶然で、氏は“オダ”、自分は“オリタ”。血縁関係はナシ)。まあ、番付企画の元祖、嚆矢としては、やはり意義はあったものと信じたい。

 このnoteを通して、自分なりにまたやってみても……? いや、いろんな意味でけっこう大変ちゃ大変なので、当面とりあえずは過去のよき思い出でいいか。

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