第二章の7.プロの解釈

大麻問題で辞任を余儀なくされた後でも、北の波は事実上の角界のトップ、親分だった。
さすがに、自分たちの現役の昭和の時代とは違う、風当たりの強さを感じてはいた。
自分たちが昔から大事にしてきた、家族的な感覚や義理人情、義侠精神のようなものは、外の世界ではすたれつつあるらしい。
だから余計に角界のつながりに対して「古い」と口を挟んで来るようだが、それも一時のことだと思っていた。
いつの世も、歴史あるものには逆風の時期もあるものだ。
そういう時は、第一線に立たずに、風除けを立てて嵐が過ぎるのを待てばいい、と思いMにリリーフを頼んだ。

しかし、そのMが最近どうも、おかしなことになっているようだ。
最初の頃のように、法律顧問たちと突拍子もない書類を出して来なくなったと思ったら、今度は普段読み返しもしないような書類の改定について、説明にやってくる。

気になって、下の者に探れと指示を出したら、何故か快傑と影で関わっているらしい。
仮にも先輩だから、皆の前でハッキリ言ったことはないが、北の波は正直言って、ああいうタイプは好きではなかった。
相撲の世界には、相撲取りのルールがあり、生き方がある。
なのに、快傑は外の考えに染まりすぎて居て、相撲取りとしての生き方から逸脱ばかりしているように見える。
外の世界で大学まで過ごした快傑とは、正反対に位置する北の波らしい考え方だった。

北の波は、快傑が18歳で初土俵を踏んだ翌年、今では禁止されている中学(在学中)の14歳で初土俵を踏む生粋の角界育ちだった。
恵まれた体格と相撲センス、そして医者嫌いも相まって怪我をしても自力で治す根性の持ち主。
圧倒的なパワーと、ここぞというタイミンクでのスピードで勝負強さを発揮し、次々と最年少記録を更新。
中学を卒業する頃には幕下、三年後の18歳で新入幕、そしてまた三年後の21歳では横綱に登り詰め、「強すぎて憎らしい」とまで言われる名横綱となった。

しかし本当の北の波は、もっと強かった。


「北の波が快傑のようにすべてガチンコで相撲を取っていたら、もっと勝っていただろう」と好角家の玄人衆の誰もが口を揃える。
実は北の波が現役の頃、「北の波から星を買いたい」と多くの力士が部屋を訪れ、その判断を親方が取り仕切っていた。
つまり15日間の内、誰と誰には負けてやる、というスケジュールがある程度決まってしまっていたのである。
「自分にどこまで力があるのか、本気で相撲を取ってみたい」と北の波は何度か親方に申し出たが、こう言われてしまった。
「お前には懸賞金が掛かりにくいんだから解ってくれ。こういう収入も部屋には必要なんだ」
確かに強すぎるが故に、北の波の取り組みは他の人気力士に比べて懸賞金が掛かりにくかった。
部屋の収入と言われてしまうと、北の波は弱い。
所属する一門こそ大所帯ではあるが、北の波の部屋には、まだまだ金の取れる力士が少なかった。

「土俵には金が落ちている」
力士たちは、こう言われ続けて稽古に励む。
しかし、それはあくまで十両以上の関取になってからの話だ。
育成のための資金はそれなりに協会から部屋に入るものの、大食漢の相撲取りが一人暮らしできるほどの収入は出ない。
衣食住の全てを部屋や兄弟子たちの世話になり、親方や兄弟子のタニマチに「ついでに食べさせてもらう」立場はまるで昔の丁稚奉公か、ヤクザの舎弟か何かのようだ。
プライドのある男子なら、一日でも早く出世して、自分の力で土俵に落ちている金を取りに行きたい、と思うものだ。
そんな風に、いつかを夢見て努力している弟弟子たちは、北の波にとっては、故郷で実の兄弟のように可愛がっていた近所の子たちと同じだった。
だから北の波にとって、勝つことも負けることも「相撲を面白くして客を喜ばせる仕事」の一部であり、部屋イコール家族を食わせるためには、致し方ないことになっていった。

相撲をプロスポーツとして考える快傑とは対象的だが、興行収入を得るのがプロとして考えるなら、自分のプライドより、客が喜ぶものを見せて収入を得る。いわゆる角界でいう「金の取れる相撲取りになれ」という言葉を北の波は泥臭く実践していただけで、それもある意味プロの姿だった。

そして何より北の波には、勝つことの向こうに大きな夢があった。
それは角界を相撲取りが自給自足する「相撲取りの王国」にすることである。

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