第一章の2 土俵を離れて得たアイデンティティ、ヒーローとの決別~3 相撲協会という組織

第三部「穢れた土俵」第一章の2
土俵を離れて得たアイデンティティ、ヒーローとの決別

1991年は不思議な年だった、と六角は思い返すことがある。

八千代山は度重なる怪我と、貴乃桜を始めとする新世代の台頭に悩まされながら土俵に立ち続け、力尽きて引退を決意し、翌年1992年に断髪式を行った。

六角自身も同じ1991年に、後に引退の原因となる膝の怪我を抱えて何度も負けたのだが、なぜか不思議に優勝をもらった。

結局その怪我が原因で休場が多くなり、治療にも音を上げて、先輩が断髪式を終えた半年後に引退を発表するのだが、すでにこの時点から自分は何かに守られていたのかも知れない、と六角は思う。

どう考えても自分は、相撲の実力では八千代山にかなわなかったのに、相撲の世界からは歓迎されているように思えるからだ。

その感覚は、六角が引退後、協会で仕事をするうちに、八千代山が協会や他の部屋の人間から驚くほど煙たがられ、評価されて居なかったことに気づいた時に、確信に変わった。

ファンや同部屋の人間から見たら、八千代山は偉大なスターであり、土俵での姿が全てだ。
協会にとっても現役の力士は商品、タレントだからスターとして客を呼び込んでくれているうちは、みながチヤホヤする。

しかし、いざ土俵を降りてからの八千代山には不思議なほど人が寄り付かなかった。

逆に、引退してからの六角には運がついて回った。
いわば分家のように部屋を出て、独立したときも、なぜか本家から部屋付きの親方たちが自分についてきてくれた。
その人たちのためにも、親方としての協会の仕事や、社長業として営業に動いた時に、力士時代には自分で欠点だと思っていたものが、すべて長所へと好転したのだ。

謙虚で、ガツガツ前に出ようとしない控えめな性格は、社交術や周囲への調整力として。
自分を客観視して、空気を読み、その場で必要とされる役目を演じ、果たそうとするバランス感覚は、組織の中で「上から使いやすい人間」として好感を持たれた。

しかも現役時代の土俵入りの時に外の人気力士と並んだ時に感じた「力士として華のなさ」も、いざ土俵を降りて一般社会の人たちとも交流するようになったら、丁度よい輝きであることが解った。
誰もが名前を聞いて「ああ!」と理解してくれるが、その後もずっと注目され続けて、連れて行ってくれた社長さんたちの気を悪くするほどではない。

引退し、親方となってからの六角は、オセロの黒がすべて白に反転していくような高揚感を覚えていた。
親方になったことで、自分の居場所を見つけ、自信を持つことで少しづつではあるが、社交性が身についていったのだ。

そして2000年 相撲の世界に15で飛び込み、現役を引退し部屋を興してわずか7年で、六角は副理事の位にあたる監事、というポジションを得る。36歳のときだった。

すっかり相撲協会や「組織」というものに馴染み、組織での生き方も知識も学んだ。
個人的にも、人脈と資金力というバックに付けるために努力してきた。

切符をさばくだけでなく、協会の中での評判もいい。
あとは確実にステップアップして、上を目指すだけだ。

ただ、そんな前途洋々に見える六角にも、わだかまりが無かったわけではない。
自分とは正反対のように、協会の中で埋もれていく八千代山への想いがしこりのように残っていた。

第一章の3 相撲協会という組織

八千代山は1994年から役員待遇になっているだけで、協会での立場だけで言えば、自分や弟弟子に何人も追い抜かれていた。

しかし、六角にはどうすることも出来なかった。

協会の仕組みとは不思議なもので、八千代山のように一代年寄で世間で名横綱と呼ばれている人が親方であっても、全く関係なかった。

一門の大きさや派閥によって、序列が決まっていて、またその中で誰がいつ、どの位に付くのかの序列がある。

ポジションが同じなら、そこで現役当時の最高位が関係してくるが、理事会に入れない元横綱だって居るのだ。

結局は、部屋や一門の後ろ盾がなければ、たとえ名横綱であっても、ペーペーとしてイチから出直さなければならない場所。
それが力士たちが現役を引退した後に働く相撲協会という組織だった。

そうなると、むしろ、現役の最高位や名声が邪魔になっているような気すらする。

自分は八千代山に対し、感謝も恩義も感じているし、力になりたいとも思うのだが、独立して自分も親方になって何年も経った今なら解る。

確かに誰かが言うような「ありがた迷惑な親分風」や「独りよがり」な部分が、ないとは言えない。

だからといって、あのプライドの高い八千代山に意見をする気にはなれない。
それどころか、恐れ多い気もする。
八千代山のことを考える時の六角は、個人的には恩義と感謝と、そして喉にひっかかった魚の骨のような感覚を覚えた。

2000年から2期4年、六角が監事の職務を務めている間に、北の波が理事長に就任した。
北の波の協会改革は凄まじいものだった。

一貫した「興行路線」で相撲を、ビジネスとして成功させる様々なアプローチを打ち出したのだ。その流れの中で六角は、北の波のさまざまな雑用を確実にこなし信頼を勝ち得ていく。上から見て使い勝手のいい性格と、相撲の世界の人間だけでは解らないことを、自身の人脈から学んでくる「小僧体質」が重宝されたのだ。

監事の職を離れてからも、上からは目を掛けられ、下からは教えを乞われる。

そんな人望のある親方として忙しくしている内に、瞬く間に時は過ぎ、2007年。
いまや六角は業界歴30年近く、40歳を過ぎていた。一般の世界なら脂の乗り切った大ベテランだろうし、それに見合う協会の肩書もそろそろ欲しくなってきた頃だ。

協会も北の波の興行路線が当たり、テレビのバラエテイ番組でも相撲を紹介する機会も増え、客足と同時に収益も上がってきていた。

先の監事以降の六角の縁の下の貢献は協会内外からも認められていて、協会からも理事長の北の波からの信頼も厚い六角の大役就任については、時間の問題だと思われていた。

そう思っていた六角と相撲協会に青天の霹靂が起こる。

新弟子の可愛がりで、死人が出たことがニュースになったのである。

つづく

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