第二章 公益新制度をめぐる混乱 1.「貴の乱」と役員待遇

1.「貴の乱」と役員待遇


北の波の後を受けたMが、改めて定期理事選で二期目の理事長再選を受けた2010年の組織改変。

この時から新しくなった協会の組織構図の中で、六角は役員待遇、という地位に就いた。

一般的に考えれば、40代半ばでの役員待遇なら順調な出世のように感じるだろう。

しかし、この時から10年前、2000年から2005年の改変まで、六角は二期四年に渡って監事の職にあった。

当時の監事の職は役員ではないものの、内容的には副理事に値する地位として、次代の幹部候補が経験を積むポジションだった。

実際、六角は北の波の右腕として様々な仕事に従事し経験を積んだ。その後、幹部候補の職を離れてからも、自らの人脈を使って協会の雑用を引き受けたり相談に乗ったりと、協会を影で支え自身も親方としては幕内力士や三役力士を輩出し指導力を評価されるなど、実績を積んできた。

現役引退して17年、46歳の脂の乗り切った時期にもあたり、今までの貢献と実績を考えると「六角は新組織では間違いなく役員である監事(副理事)以上を与えられる」と、誰もが思っていた。

だが、この図を見てもらうと解るように、六角は運営側ではなく、使われる側のリーダーのポジションを与えられてしまったのだ。

この人事の発表より、少し前。

角界に激震が走った。

角界の慣習を破って、貴乃桜が単独立候補を表明したこの出来事は、後に「貴の乱」と呼ばれることになる。

角界の選挙は、一般市民が思うような本来の意味での「選挙」ではない。

定員に対し、それぞれの一門が理事候補を決める時点で票固めが出来ている。

自ら推薦する候補に票が足りている場合は、関係一門同士で票の貸し借りが行われるなどして「誰を理事にするか、事前に決まっている選挙」なのである。

しかも投票は「記名式」の上、投票箱のすぐ側に居る「選挙管理」役員に、記名した投票用紙を見せてから箱に入れる。

そこまで用意周到に裏切り者が出ないようにする理由は、何より角界が「相撲」を職業に出来る特殊で唯一の場所だったからだ。

だからこそ理事は、何をおいても「角界の伝統と平安を守る番人」でなければならなかった。

しかし貴乃桜はその掟を破り、一門から離脱し、自分の一門を立ち上げそのまま立候補したのだ。

「ありえない、あってはならないことだ!」

「なぜ協会は立候補を認めるのか!」

天地をひっくり返したような大騒ぎとなった角界の面々は、事情を知っているのではないかと、まず六角に問い合わせたが、六角も寝耳に水の話だった。

師匠でもある年寄衆や、親方たちが苛立ち、動揺していれば、それは当然弟子たちにも波紋が拡がる。

このままでは、理事選が終わるまで稽古もロクに出来ない、何とか皆を落ち着かせたい

そんな声を代表し、六角は未だ影で院政を引く北の波の意向を聞いて来てほしい、と依頼された。

本来なら現在幹部の職に就いていない者が、直接北の波のところにお伺いを立てるのは畏れ多いのだが、ことが事だし以前から交流のある六角になら話してくれるのではないか、と皆が頼りにしたのだ。

六角も貴乃桜の立候補には納得が行かなかったが、気乗りはしなかった。

最近、北の波との直接の交流がなかったのもあるが、次の改変で幹部入りするとも噂されているのに、お伺いとはいえ、反発しているように見られたくはない。

それでも「お前しか、聞ける者はいないだろう」と先輩年寄衆にも頼まれれば、むげに断るわけにも行かず六角は渋々その役目を引き受けた。

だが何度掛け合っても、北の波とは連絡が取れず、面会出来なかった。

仕方なく、六角は現理事長のMを問い質した。

角界の伝統や掟を第一に考える北の波が、こんなことを許すはずがない。
Mの勇み足か、北の波の指示を誤解して許可してしまったのではないか、と。

「こんなことが許されて良いんですか。前理事長は納得しておられるんですか」

Mは、六角だけではなく他からも突き上げをくらっているのか、疲れ切った顔をしていた。

そして力なく、淡々と答えた。

「貴乃桜の立候補は、改定された理事選任のルールには違反していない。」

「そんな筈は・・・」

「去年の秋に改定の告知を出したのを読んでいないのかい? 違反はないんだよ。正当な立候補を取り下げろというなら、それなりの理由が必要だよ。」

慌てて部屋に戻った六角は、改めて忙しさのあまりに放置していた「協会定款改定の知らせ」を熟読した。

「公益法人法制度改革」

確かに聴いた覚えはある。

昨年、2009年年明けの総会だったか。

5年間の間に移行しなければ、財団法人としても消滅してしまうので、これから色々変えていく・・・そんな話をしていたような気もする。

しかし、それが一年後の今になって、自分たちの慣習や、生活にまで影響を与え始めて居るとは正直理解していなかった。

六角は2年前、新弟子リンチ事件以降の騒動の際に自分が感じた、あの感覚を思い出していた。

マスコミなどが外のモノサシを突っ込んで干渉するどころではない自体だった。「法律」が角界に手を突っ込み、変えようとしていたのだ。

そして、ふと、もうひとつの思いに突き当たった。

なぜ、北の波は自分には何も相談して来なかったのだろう。

今まで、外の知識や理解が必要な時には、いつも自分は使われてきた。
だからこそ、北の波が何を考えているのかも把握することが出来た。

今回はなぜ?

そして、今まで気にも止めていなかった記憶が思い出された。

協会で、場所で、そして街で。

北の波と貴乃桜が時々、一緒に居るところを見かけた。

その時の北の波の親しそうな様子と、自信に満ちた貴乃桜の表情が、何かを物語っているように思えた。

そういえば、これまでも北の波は貴乃桜に甘かった。

貴乃桜が引退して協会運営の一員になった時に、角界のサラブレッドであり、人気も抜群だった一代年寄をどう扱うべきか、正直みなが戸惑った。

しかし、北の波は笑いながらこう言っていた。

「協会で信頼されているのはお前たちだ。先輩なんだから遠慮することはない。だが人寄せパンダは大事にしにゃあいかんからな」

ほんとうに、人寄せパンダとしてだけ貴乃桜を見ていたのだろうか。

まだ引退して何年も経たない貴乃桜を要職に抜擢したり、貴乃桜が協会批判をして協会内で問題になった時も、北の波は庇った。

自分たちは、所詮外様だ。

北の波の口車に載せられ、おだてられて使われてきただけで、いざとなったら旗本の貴乃桜が全部持っていくんじゃないのか?

今思えば、それは六角の中で、北の波への信頼が不審に変わり始めた瞬間だった。

いくら甘いとはいえ、北の波は貴乃桜がここまですると知っていたのだろうか?
まさか、焚き付けたのだろうか。

六角の中で、北の波の態度と今回のことが、どうしても結びついてしまう。

疑惑はどんどんと膨らみ、とんでもない方向にまで飛び火しそうになる。

六角は慌てて良からぬ妄想を打ち消した。

いやいや、北の波はそんな人間ではないはずだ。

自分は年寄代表として、今回の件についての協会の意向を皆に説明しなければならない。

こんな自分の疑念だけで、確認もせずに北の波を疑ってはならない。互いに忙しくて距離を置いている内に、意思の疎通が出来なくなっているだけだろう

そして思い付いた。立候補出来ても、受かるはずがない、ということを。

そうだ、きっとそうだ。

自分が北の波の立場や、理事長Mの立場で貴乃桜から立候補を相談されたとしても、説得出来なかっただろう。だったら立候補させて、駄目だと自分で理解させた方が早い。だから協会も黙認したんだろう。

「大丈夫だ、受かるはずがない。」

すべて根拠のない六角の希望的観測だったが、安心できる材料欲しさに六角にすがった年寄衆は、この考えに乗った。

「そうだそうだ、あんな掟破りは理事選に落ちた後、角界を追放してしまえば良いのだ。」

誰もが貴乃桜の無謀な立候補をバカにし、落選の日まで「高みの見物をしてやろう」とすら思っていた。

しかし貴乃桜は当選した。

六角の中でいくら抑えてもチラついていた北の波への疑念は、打ち消しようのない疑惑に変わりつつあった。

そして組織改編で、ダメ押しを食らう。

自分が貴乃桜の下の地位に据え置かれた時、六角に北の波が声を掛けたのである。

「お前は叩き上げで経験もあるし、貴乃桜みたいに近寄りがたい雰囲気もないから、皆に慕われている。下の者の長として、協会幹部との橋渡し役にはぴったりだ。あと何年かご奉公すれば、お前も役員になれるんだから手を抜くなよ」と。

自分は北の波に裏切られた。

それが目の前に突きつけられた後も、六角はどう対処するべきか、悩み続けた。

未だ「貴の乱」のショックや、組織改変の背景や理由が理解できない仲間たちが、来る日も来る日も六角の元に押しかけ、怒りや愚痴をぶちまけた。

「相撲界の秩序はなくなってしまうのか。」

「所詮、外様は黙っていろということか」

「「『君、君たらずとも臣、臣たらざる可からず』 と、諦めればなければならないのか」

「自分たちが今までやってきたことは、すべては無駄になるのか」

角界の将来への不安、協会の新制度に対する憤懣やる方無い思いは、六角も同じだった。

しかし、その当時の六角には、皆に掛けてやる言葉が見つからなかった。

なぜなら、北の波と協会への失望と怒りを抱えたまま、協会の犬とも思えるような「新制度移行申請チーム」への参加を指名されていたからだ。

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