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花見の歴史を紐解く

さて、今回の3000文字チャレンジのお題は「さくら」です。

桜といえば、花見。
皆さんは花見と聞いて、何を思い浮かべますか?

川べりに沿って植えられた桜が一斉に花を咲かせている中を散歩したり、ランニングをしたり、犬の散歩をしている光景でしょうか。それとも大きなソメイヨシノの木の下に朝からブルーシートを敷いて陣取り、家族や仲間、同僚などとお弁当やお酒を持ち寄って、飲んで食べている光景でしょうか。もしかしたら酔っ払いすぎて眠ってしまう人もいるかも知れません。それともお日様ポカポカな近所の公園で、我が子を遊ばせながらベンチに腰を下ろして、青い空を舞い散る花びらを眺めながらおやつを食べている光景でしょうか。それとも真新しいカバンを持ち、ピカピカの服を着て、桜吹雪が舞う中を元気に駆けながら学校の門をくぐっている我が子の後ろ姿でしょうか。挙げればキリがありません。

日本人はとにかく桜が好きで、こぞって今の時期に花見へ繰り出します。早咲の桜である河津桜を見るために、毎年多くの観光客が静岡県の河津町という小さな町を訪れています。その経済効果は数億とも言われています。他にも全国各地の桜の名所は人で溢れかえっています。桜前線の北上を連日にわたってテレビで放送するなんて、外国ではまずありません。日本ならではの春の風物詩なのです。

そこで今回は、日本人が大好きな花見っていつから始まったのか。花見にまつわるエピソードも交えてご紹介して行こうと思います。

花見の起源は、奈良時代の貴族の遊興にまでさかのぼります。
ただし、その当時は花見と言えば中国から渡来してきた「梅」を賞でるものであり、桜といえば山桜を指していました。
歴史の授業でも取り上げられる遣唐使を盛んに派遣し、中国の進んだ文化を取り入れていた最中に、日本にもたらされたのが梅の花。
可憐に咲く見た目と上品な香りが、皇族や貴族の心を掴んだのかも知れません。
その証拠に日本最古の歌集・万葉集には桜の歌が44首に対して、梅の歌が118首と3倍近い差がありました(万葉集全体では約4500首以上の歌が収録されています)。

ところが平安時代になると、梅と桜の立場が逆転します。
時の嵯峨天皇が桜をこよなく愛し、毎年献上させたり、京都府にある神泉苑で桜を賞でる花の宴を催したり、という記録が残されています。これが桜の花見を行なった記録の初見と見られています。

当時編纂された古今和歌集(総数1111首収録)によると、梅が18首に対して桜が70首、と万葉集のに比べて数が逆転しているのがわかりますね。

花といえば桜、はこの頃から定着してきたようです。

平安時代の歌人・西行は桜をこよなく愛した人として有名です。代表的な歌は【願はくば 花の下にて春死なん そのきさらぎ(如月)の望月の頃】当時は太陰暦であり、如月のは今の3月を指します。満月の夜、桜の下で死にたいものだという願い通りに、桜の咲く頃に亡くなったと伝えられています。

桜の開花時期が農耕の始まりと重なるため、農家の間では花見は豊作を祈る行事として行われていました。しかし庶民には程遠く、娯楽としての花見は貴族のものであり、鎌倉・室町時代には武士の間にも広まっていたものの、まだまだ上流階級のものという側面が強かったのです。この時代で代表されるのは、かの豊臣秀吉が晩年に開催した醍醐の花見。京都の醍醐寺に700本とも言われる桜を植えさせ、自分と息子の秀頼と妻達、家臣である多くの大名を従え、贅を凝らした花見を開いたのだそうです。

花見が庶民にまで広がっていったのは江戸時代の中頃、享保年間になってから。
8代将軍徳川吉宗(暴れん坊将軍でお馴染みの人)が倹約倹約で景気が下がっていた庶民に娯楽を提供するのが目的でした。飛鳥山や墨田川沿いにたくさんの桜を植え、花見を奨励したのです。
朝からお弁当を作り、家族やご近所さんなど大勢でで桜の名所へ繰り出す。三味線を奏でて歌ったりおしゃべりしたり、お弁当を食べたりする今の花見のスタイルが確立していきました。時にはお見合い(と言っても姿を見る程度)やアバンチュールの舞台にもなったらしく、数少ない年間行事として瞬く間に定着していったのだとか。 ちょっと裕福なお家や大奥の女性たちのお花見は、今の紅白の垂れ幕のような幕で周囲を囲ってプライベート空間を作ってお花見を楽しんでいたらしいです。

江戸時代きってのの歓楽街・吉原はもっと豪快です。3月の頭から末までの短い間に桜並木を作ってしまったのです。
咲いた桜を根っこごと掘り出し、メインストリートである仲ノ町の通りの中央に植えてしまうのです。仲ノ町の通りの長さは約245メートル。一説には1回に100本の桜の木が植えられたとか。満開の桜の木の下を、華やかに衣装を纏った花魁が静々と歩く光景は、さぞや見応えがあったに違いありません。
桜が散ったらまた根っこごと掘り出して、更地にするという手間のかけよう。大門の外へ出られない女性たちのため……というよりも、イベントを盛り上げて客を呼ぶことが目的だったのでしょう。それにしても、ものすごくお金のかかることをしていますね。そんな吉原の桜を見に男女問わず、武士も庶民も関係なくたくさんの人達が吉原に押し寄せたそうです。もしかしたら、たくさんの見物人に混じって仕事の合間に桜を愛でに行った遊女も混ざっていたかも知れませんね。
吉原は歓楽街でありながら、一大レジャーランドでもあったことをうかがわせるエピソードです。

江戸時代にはまた、品種改良も盛んに行われるようになりました。現在、日本のみならず海外にも輸出されているソメイヨシノは、江戸末期から明治にかけて品種改良されて作られた品種です。意外にもソメイヨシノの歴史は新しいのです。

明治に入ると、大名屋敷の荒廃や凋落によって取り壊され、敷地内に植えられていた桜もことごとく伐採されてしまった時期がありました。それを憂いた人々の手によって桜の植樹が進み、現在のような桜並木や桜の名所が生まれていったのです。まさに桜は名もなき人たちの尽力によって今に受け継がれているのです。そう考えると、桜を見る目が少し違ってくるんじゃないでしょうか?

もう一つ、桜というと【花は桜木、人は武士】という言葉が浮かびます。

桜の散り際の鮮やかさを武士の生き様と重ね合わせた言葉と言われていますが、桜の咲く時期が短いことから、桜を家紋とする武士の家は意外と少ないのです。桜が日本人の象徴という見方をするようになったのは、大正時代も終わりの頃からのようです。確かに軍歌には「同期の桜」「歩兵の本領」を始めとして、桜をモチーフとして使われていることが多いです。

さて、文字数がまだ少し足りないので、私のペンネームについてお話していきます。私のペンネームは桜花(おうか)つまりはさくらです。毎年桜モチーフの文具や雑貨が出ると、買い漁るくらいには桜が好きなのもありますが、実はもう一つ、別の由来があるのです。
それは2年ほど前のこと。新宿の思い出横丁(別名ションベン横丁)に文章スクールの師匠と一緒に飲みに行った時に、師匠の勧めでガリ酎ハイ(焼酎のソーダ割りにガリが入っているお酒)を飲みました。透明な焼酎のソーダ割りの中に入れられたガリ。ガリのピンク色が水中花のように見えて、すごく綺麗だったのよ。それこそ桜の花びらが開いたようで……。
そこで直感的に桜花にしようと思った次第。飲兵衛らしい話ですわ(笑)

文字数も埋まったのでこの辺で。今年はどこに花見へ行こうかな?

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