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生活圏から離れたスーパーへ赴く

身近にあるものというのは、あまりに当たり前であるが故に誰でもがそうであると勘違いしてしまう。

毎日のようにスーパーで買い物をしていると、世の中どこでも同じように野菜や肉を買っているような気がしてくる。

ナスの値段が上がっただの、今日は玉ねぎが安いだの、一喜一憂しながらもとりあえず受け入れる。

同じ場所でたくさんの人が買い物をしているから、自分もその中の一人として溶け込んでいく。それが普通のことなのだから。

基本的にわざわざ生活圏を離れてスーパーに行くことはほとんどない。
買いたいものは近くで売っているのだから、遠くへ行こうと思う理由がないのである。

人が必要とする商品に大きな違いがあるわけでないので、
規模には少々差があるものの、どこへ行っても見慣れた商品が並んでいる。

スーパーと言えば、誰もが大体同じようなイメージを思い起こせることだろう。

生活に根差しているのだから、日頃差異を気にするということはない。

ただなんとなく暇だったので、ふと別の生活圏のスーパーを覗いてみたくなった。

自分は生活するために、これくらいのお金をかけて、このくらいのものを使っているが、他の生活圏の人はどんな生活をしているのだろうか。

スーパーに行けば、分かることもあるんじゃなかろうかと思った。

知ったからどうってことはないのだけれど、周りのことを知ってみたくなってしまうのが人の性というところであろうか。

そういうわけで、普段行きもしないような駅で降りて、絶対に行くことはないであろうスーパーを覗いてみたが、

結果は、なんとも衝撃的であった。

日頃これを買うにはこれくらいというのは、なんとなく頭に入れているつもりなので、何かを作るときの値段感は分かる。

そして、そのくらいかかるのが普通だと思っていたのだが、全然違う。

試しにナスを見て見れば、5本買うのに170円も差があって、
ピーマンであれば80円、玉ねぎは40円だ。

しかも、生活圏内のスーパーよりすべて安い。
いや、すべての商品ではないかもしれないが、少なくともよく買う野菜はすべて安かった。

いつもご飯を作るときは、どれか野菜を1品買ったら予算に届いてしまっていたのに、少し生活圏を変えるだけで2品入れることができる。

豪華な料理が食べれそうだ。

なんということだろう、そんなことも知らずに数年間一人暮らしを続けてしまった。

生活圏内に比較できる対象がないと、わざわざ比較することもないから仕方ない部分もあるのだろうが、場所を変えれば無限に比較対象が現れる。

気軽な気持ちで、生活圏外のスーパーなど見なければ良かったのかもしれない。

これから買い物をするたびに、

「ああ、このナスは170円安く買えるんだよな」とか「ピーマンも買いたいのに予算がな、あっちのスーパーだったら…」とか思いながら生きなければいけなくなってしまった。

駅近だの、家賃だの、家の近くに何があるのかばかり気にして家を探していたけれど、近くのスーパーの野菜の値段までは気にしたことがなかった。

盲点である。

同じものを食べて、同じように生きているだけなのに、日々実は差が生まれていると思うと恐ろしい。

仮に1日食費が200円違えば、ひと月経てば6,000円だ。
携帯とネットの契約くらいはできそうな感じだし、1回分のおしゃれな外食もできそうだ。

塵も積もれば山となると言うが、そもそも1日200円の差は塵なのだろうか。

小学生なら大金だ。

仮に家賃を安くしても、近所のスーパーが高ければ、実は同じくらいのお金をかけているなんてこともあるかもしれない。

対象の金額が小さいから、気づきづらい。
ゆでガエルみたい話である。

なんとも悲しい。
気付いてしまった以上、水の温度が熱くなっていると知りながら、その中に入っていなければいけないではないか。

まあ、どうこう言っても、次引っ越しをするまではどうすることもできない。

水が熱くなってることに気付いただけ、ましとしよう。
圏外を覗きに行くというのは、新しい発見があっていいものだ。

・・・

隣町のスーパーはちょっと安かったりするのかしら。

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