かっこつけた文章に逃げないと決めてみる
文章を書いていると、知らず知らずのうちにかっこいい文章を書こうとしてしまうことがある。
仮に自分がそう思っていないとしても、なんとなく言葉の響きがよさそうだという風に流れていく。
実際に響きがいいかどうかは分からないが、少なくとも書いている瞬間の自分には、かっこよく見えている。
ただ、毎度のことそうなのだが、その時「これはかっこいい!」と思った箇所に限って、後からとても恥ずかしくなる。
そして修正し、自分っぽい言葉に直す。
「なんで、こんなにかっこつけたのか」と問い詰めたくなってしまう。
じゃあ、なんでそんなに恥ずかしくなるかと考えてみると、文章の中でその一部分だけが、自分ではない得体の知れない何かを感じるからだと思う。
普段の自分なら絶対に言わない言葉をつい言ってしまった後に、急に恥ずかしくなる経験はないだろうか。
どこかのドラマで主役の人が言ったことはとても説得力があり、心に響くモノがあったはずなのに、
自分の口から自分の声で聞くそのセリフは、なんだか浮ついたモノに聞こえてしまう。
同じ言葉のはずなのに、なぜそんなことが起きてしまうのだろう。
自分が言い慣れてないだけで、何度も繰り返し発したら後から馴染んでくるのか。
それとも、水面下では馴染んでいて知らぬ間に言葉としてあがってくるのか。
ぼんやりとだが、かっこいい言葉というのは、最初は自分のモノではないのではなかろうかと思う。
誰かが話している言葉を聞いたり、本を読んで発見したり、言葉に出会える場所はたくさんある。
それゆえに、かっこいい言葉に出会うことができるので、それを自分でも使ってみたくなる。
新しいおもちゃで遊んでみたくなる子どもの頃の感覚に近いのではないかと思う。
しかし、いざ話してみると、言葉に出会った時には存在していなかった、居心地の悪さを感じることになってしまう。
理屈では説明できないけれど、本能的に「これは自分ではない」と思うのだろう。
実際のところ書いている最中も、これは自分っぽくないなと感じていないかと言えば嘘になる。
むしろ自分っぽくないからこそ、かっこよく感じている。
こういうところだ、僕が逃げたくないと思うのは。
雰囲気でそれっぽく取り繕っていたとしても、後から見た時、その違和感に一番に気付くのは自分である。
ちょっとかっこいいと思って書いたんだろうなというところが透けて見える。
その自分を思い浮かべるのは、なんともいやなものだ。
記憶から消しておきたいが、読めばなんとなく思い出してしまう。
だから、ちゃんと最後まで自分の言葉で書ききりたい。
誰かに影響されることも、誰かに媚びることもなく。
今、発しているのは誰の言葉なのかと考えると案外難しいところはあるが、自分っぽいかそうでないかくらいなら分かりそうだ。
せっかく文章を書くのなら、逃げずに自分の言葉で書き進めたい。
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