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自由はもたらされるものではなく、切り拓くもの

《 仮想の往復書簡とは 》
誰の目に留まるともわからないけれど、
見知らぬ誰かに宛てたお便りを書くように、
日々思いついたことを綴っています。
これを読んでくれた誰かが、何かを思ったり考えたりしてくれれば、それが私にとってのお返事です。


仮想の往復書簡 第9便


こんにちは。
ときどき気まぐれに美術のことを取り上げてお便りしていますが、
今回は彫刻家の北村西望について書きたいと思います。

東京三鷹、井の頭恩賜公園の中に、北村西望の彫刻館があります。
近隣に4年ほど住んでいながら、一度も行ったことがなかったのですが、
先日ふと思い立って彫刻を見に行きました。


その日は平日で、大雨が降っており、館内には誰もおらず貸切状態で展示を見て回りました。

高さ9メートルもある長崎「平和祈念像」の原寸大の石膏型は、一対一で対峙して見上げると圧巻でした。


他にも等身大の人物像や、40センチくらいの小ぶりな像まで、たくさんの作品が並んでいます。

中でも、瞬間的に心惹かれたのは「自由の女神」という作品です。

天馬の背中に横乗りで腰掛ける女神が、天を駆っていく姿を捉えた作品で、素材がずっしりとした銅でできているとわかっていても、
風になびく女神の長い髪や、天馬のたてがみが今にも動き出しそうな躍動感を感じます。

女神は左手を天高く突き上げて、目を見開き、口はまるで「やー!」と刻の声をあげているかのようです。


自由の女神と呼ばれる彼女ですら、
こんな風に髪を振り乱し、拳を天に突き上げて、一心不乱に自由を切り拓くものなのか、
と感じ入りました。

自由は何処かからもたらされるものではなく、
自ら切り拓いた先にあるのだ、
と思ったのです。


考えてみると、自由というのはよくわからないものです。
不自由への反発をいうのか、
あらゆることが許されていることをいうのか、
ある種の制約と解放を行き来することをいうのか、
その全てでもあるかもしれないし
全部違うのかもしれません。


あるいはもっとシンプルに、裸足で入道雲を見上げながらスイカバーを食べるのが、自由なのかも。
いろいろと考えを巡らせるきっかけになるので、美術鑑賞はおもしろいですね。

三鷹にお立ち寄りの際は、ぜひ北村西望の彫刻館へ行かれてみて下さい。


それではまたお便り致します。
台風前の風の音を聞きながら。

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