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綱渡りの日々

朝、目はつぶっているものの脳が起きている状態で思った。

わたしこのままコロナで死んでしまうのもいいのかもしれない。ただ親にうつす訳にはいかないから、自分だけかかってひっそり消えてしまえたら。

コロナの脅威に晒されて、誰もが生きているだけで様々な決断を強いられている。私もそうだ。自分の決断が果たしてよかったのか悪かったのか。

私はコンビニ勤務から新しい職場へ変わることになり、オーナーへ辞めたい旨を伝えた。そして三月一杯で今のシフトは終わり、新しいパートさんが決まるまで週一で入ることになっていた。

私がシフトを減らして新しい職場に比重をおいたのとほぼ同じ時期、一緒に働いていたパートさんが検査入院から手術になってしまった。そして緊急事態宣言で、新しい職場のある商業施設は一ヶ月近くの休業に入ってしまった。

迷うことなくコンビニのオーナーに連絡し、辞めます宣言の前と同じシフトで入ることになった。

ただでさえ人手不足のギリギリな状態でまわっているのに、同じ時間帯のパートが二人いなくなったら、残った人達への負担は相当なものだろう。

正直言えば、一ヶ月コロナの脅威に晒されずに過ごす選択があったのだ。だけど、二年近く一緒に働いていた人達がコロナ禍のなか二人分のシフトを埋めつつ働いているのを知っていたら、心穏やかでいられない。

そして、働けば時給が貰える。そんな下心もあった。私は生まれながらのインドア体質なので一ヶ月家にこもることは苦ではない。でも働けば他の人の負担が減るし自分は収入を得る。win-winではないか。

これはナイスアイデア!と、思っていたのに。

コロナの暗い影は日に日に強くなってきた。コンビニ店員は感染リスクの高い環境だ。不特定多数の人間と絶え間なく会話するのだ。イラッシャイマセ、ポイントカードハオモチデスカ?マニュアル通りと揶揄されても、無言では成り立たない。

それに家には高齢の両親がいる。父は抗がん剤は使ってないものの、がん患者だ。親が感染したら、たとえ仲の良くない親子だとしてもやりきれない。生涯後悔するのは目に見えている。

もし自分自分がコロナに罹ってしまったら。店は休業に追い込まれ、一緒に働いていた人々は濃厚接触者として自宅待機になるだろう。やはり親ががん患者のパートさんだっている。私が勤務を復活してしまったばっかりに、そんな事態を起こさないとはとても断言できない状態で、不安ばかりが絶え間なく降り注ぐ。

外出自粛とはいえ、案外コンビニは変わらずにぎわっている。会社で食べる訳では無いのでお昼のお弁当を買う人のレンジ温めが減り、カゴ一杯のお菓子やアルコール類を買う人が増えた。

コロナ重症化には喫煙者が多いと報道されていても、タバコを買う人は減らない。止めた方が良くないですかとは言えない。番号を言われたら、迷いなく差し出さなければならない。顔は笑っていても心が重い。

名前は知らなくても顔だけ知ってる近所で働いているお客さんに、不思議な連帯感を持ったりご安全にと願ったり、雨の日の人の少なさにホッとしたり。トイレの床を拭きながら、排泄物からも感染するというニュースを思い出し、いつも以上に手を洗ったり。

コロナに罹る前に心がやられる。ジワジワとやられる。東日本大震災前と後が違うように、コロナ前とコロナ後も違うだろう。いや、コロナ後という日ははるか遠く、コロナ中が続くのだろうか。私は淘汰されても仕方ない人間だけれど、光輝く未来の待っている愛し愛されてる人々が疫病で亡くなるのは気の毒でならない。





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