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仕事の話

僕の仕事というのは不動産会社の電話窓口の業務で、いわゆるコールセンターというやつだ。天井から水が漏れてきたとか、鍵を無くして部屋に入れないとか、家にまつわる困り事を解決するのがこの窓口の役目だ。部屋を借りる時、火災保険と一緒に「安心◯◯サービス」みたいな名前の、イマイチ使い所のわからないふんわりとしたサービスに加入させられた記憶はないだろうか。そのサービスを実際に提供するのが僕の仕事である。そんなもの記憶に無いという人も、そのほとんどは不動産会社からロクな説明も受けずほぼ自動的にサービスに加入させられているケースが多く、窓口に架けてくる人の大半は自分が会員なのか否かさえ把握していない。当然こっちでは客が何年の何月まで会員だとかそういう細かいところまでわかるのだが、面白いことにその情報は開示できないきまりになっている。先に言ったように自分でも知らずのまま会員費を取られている客も多いからだろう。逆に「お客様は非会員様なのでサービスを提供できません」と口を滑らせたオペレーターが「会員ってなんのことだ?」「今から(会員に)なるからすぐ来てなんとかしろ」とこっぴどくやられていたのも見たことがある(笑)

僕は大学生の頃にアルバイトを二つやって以来、仕事という仕事はこのコールセンター業しかやったことがない。最初は電力会社、次がスマホ、次がワクチン、そして今である。今僕はそれらの経験(笑)のお陰でコールセンターなのに電話も取らずぼーっとして、たまにマウスをダブルクリックしたり、椅子の高さを変えたり、アルコールスプレーをシュッとやったり、一日適当なことをやっていれば給料が貰えるというポジションを手に入れた。

コルセンではどこも派遣社員とか契約社員として働いていたから、僕は26歳になる今まで一度も正社員としての社会経験がない。そもそも就活をしたことがないという話だ。強いて言えば大学を中退した直後に不透明な将来への先行き不安から公務員試験を受けたことがあるぐらいだ、面接で落ちたが…。コルセンの良いところはとにかく気楽なところで、髪型も服装も自由、シフトも大体自分の好きなように組めて休みも取りやすく、一日中座っていられるし時給も相場より高いところが多い。実際今は月に十六日しか働いていないが、それでも十七万ぐらいが手元にくる。三年ほど前、週五日間みっちり地道に残業して働いていた頃は手取りで三十万ぐらい稼いでいたし、営業系のコルセンはもっと稼げるとか聞く。稼ぎたくてやってる人も多いが、僕のように怠けたいからやってる人も多い。半々くらいだろう。事実、求職サイトで甘えに甘えた条件(髪服自由、学歴経験不問、高時給、週一OK!、髭OK!、タトゥーOK!、ピアスOK!、イエーイ!等)を絞り込めば、出てくる仕事の大半はコールセンターである。この話を同僚にしたら「えっ、コルセンが好きで働きたいわけじゃないんですか!」と驚かれたことがあるが…そんな奴いるかよ。

ここまで読めばお分かりの通り僕の仕事に対する意識は相当低い。まず「仕事」という言葉が気持ち悪い。自分の口から「仕事」という言葉が発されるとき、どうしようもない違和感みたいなものを感じる。学生時代、アルバイトのことを「仕事」と呼ぶやつが居て大嫌いだったが、そのとき感じたむず痒さみたいなものを未だに感じてしまう。大した内容もないくせに何が「仕事」だよ、カッコつけんなよ、ペッ!ペッ!と思ってしまう。これは、僕が大した内容の仕事をしたことがないことが大きな原因かもしれないが、でもやっぱりどれだけ大変な仕事をやっても一生同じ違和感を抱く気がする。だって誰に強制されたわけでもなく自分で選んだくせに「あ〜生きてくって大変だよなあ」みたいなことを思ってそうな感じがある。「仕事」という言葉にはそういう、やれやれ感乃至はおままごと感みたいなものがある。

それから、僕はよく「令和の虎」を見るのだが「令和の虎」さんの岩井主催さんや虎の社長達さんが口を揃えて「仕事は人のためにやらんと成功しない。自分のためにやっとるうちは三流!!」みたいなことを言っていて、これも僕が拒否反応を示してしまう原因のひとつだろう。いや、この言葉自体は真理で、仕事とは誰かの為に心身と時間を費やしその対価として給料を貰うものだからそこに意識的に向き合えるかどうかが成功の秘訣だということは僕にもわかる。誰かの代わりに我慢したり辛い思いをしている時間に対して、ごめんね・ありがとね料として時給が発生しているのだから。で、だからこそ僕のような、自分が一番可愛い自己愛人間はこの仕組みに嫌悪感を抱くし、嫌悪感を抱くから進んで参加することはできない。参加するにしても迎合で、迎合し続けるにもいつか限界がやってくる。「令和の虎」さんの志願者達さんは常にこの仕組みに献身できるか、そう、いかに心から献身できるか、「仕事」する適性が高いかを見極められている。どれだけプレゼンが上手くても、迎合しているだけの奴は必ず見透かされる。もしも僕なんかが志願者として出たらすぐに見透かされるだろう。コンビニの面接も、イケアの面接も、公務員試験の面接も、僕を落とした面接官はそこを見抜いた。面接官の判断は正しかったと思う。お客様や、会社や、社会に心から献身できる人間が欲しい企業からしたら、僕のような地雷は抱えたくないだろう。

自己愛が強い=自己肯定感が高いというのも現代社会においては考えものだ。やれ肯定感を高めよう、やれ個性を尊重しようとお題目を並べていても、社会が本当に必要としているのは自分ではなく他者に献身できる人間、自己の薄い自我の弱い、社会そのものみたいな人間だということはみえみえで、そういう人間の集まりだから社会は社会らしくいられる。僕のように自己愛の強い人間は、社会の”ふり”が上手いかどうかにかかっている。この”ふり”が上手い人ほど早く仕事に慣れて、下手な人ほど慣れるのが遅い。少なくとも、社会的な仕事に従事するなら。

ところで、社会的でない仕事など存在しない。たとえ好きなことを仕事にしても、それが仕事になったその日からそこには社会が絡む。仕事になれば客が発生し、客の求めるサービスが発生し、それを提供して初めて報酬が発生する。家でシコシコ自分の好きなシコ絵をシコ描いてシコ掻いてればよかったあの頃とは違う。そのシコ絵の持つ意味合いが、趣味と仕事とでは大いに異なる。好きなことを仕事にするというのはどうも、僕には真っ暗な道に思えてならない。

色々書いたが、今の仕事も自分の為にやっている分には結構面白いことも多い。知らないどこかの街に住む知らない誰かの生活の一端を合法的に覗き見ることができる。隣の子供が「パパやめて、死んじゃう」と叫んでるんですけどとか、干からびたコウモリの死骸が引っかかって換気扇が壊れたんですけどとか、誰かが勝手に部屋に侵入して冷凍庫のみかんを解凍したんですけどとか、世の中では常にこういった喜劇が巻き起こっており、その数%が迷い込んでくるこの窓口で働いている限りこの手のネタには事欠かない。そう考えると向いてるような気もする。

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