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両国で「これぞ問屋街のメリット」と言うよりない帽子屋さんを発見

いま住んでいる両国エリアは、隅田川を渡った西側の東日本橋の辺りまで含め、江戸の昔から ”問屋街” だった。
というのも、この一帯は隅田川やその支流が通っている土地であり、また一大商業拠点であった日本橋からほど近いため、水運を利用して大量の物資を運ぶのに最適だったのだ。

そのため、日用品から衣服から玩具から石材から、色々な商品が両国・浅草橋・蔵前・日本橋横山町などに集められ、一大問屋街となったのである。

超ざっくりした解説で申し訳ないが、こうした歴史的背景を持つこれらの街は、実は未だに何らかの問屋街であったり、専門店街としての色合いを強く残している。

たとえば、つい先日アップしたこの「花火を買うなら蔵前~浅草橋の問屋街を狙え」という内容の記事にも書いたように、この一帯は玩具・文具・日本人形・革製品などの問屋や専門店が密集している。

また、馬喰横山駅からすぐの日本橋横山町の一帯は、お隣の馬喰町も含めて、衣類・繊維問屋が集まった街として有名だ。
ちなみに、横山町はそもそもは日本橋で売り捌く商品全般が集められる物流拠点的な役割を担っていて、馬喰町は横山町を訪れる商人達が宿泊する街だった。

それが、鉄道駅(東京駅)の開業と共にこれまでの物流の在り方が変わってしまい、馬喰町と横山町が揃って繊維問屋街に変貌していったという経緯があるそうだ。

こうした隅田川の西側エリアと比べると、両国(本所)はいまいち問屋街や専門店街の印象は弱いと思うのだが、旧日本軍の被服廠(軍服工場・倉庫)が置かれていたような土地なので、歴史的に見れば横山町にも引けを取らない重要な役割を持っていたと分かる。

なんせ両国の一帯は、大昔から衣類を扱う会社・問屋・倉庫が多過ぎて、一度火がつくとペンペン草1本残らないほど丸焼けになってしまうと言われていたほどだ。

それは決して大袈裟ではなく、江戸の大火、関東大震災、東京大空襲と、実際に各時代に1回ずつは街全体が丸焼けになっているというトンデモない土地なのである。

ただ、蔵前や横山町のように分かり易く整備されていないため、「今も問屋街の要素が強い」という特色が目立たないだけなのだ(両国と言えば相撲のイメージが強烈過ぎるという説も)。

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