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人を思う人は誰でも、鬼殺隊なのかもしれない。

ーワタシの解釈!鬼滅の刃ー

鬼滅の刃が一大社会現象になっていますね。マーケティングの力ももちろんあると思うけど、老若男女に響く”何か”があるのではないかと。全巻を通して感じたことを一言で言うと、「人を思う人は誰でも鬼殺隊なのかもしれない」ってこと。それがなんでかってことをいくつか書きたいと思います。

①大切なものを守るために命を賭す、命がつながっていくことへの信頼 VS 生への執着 

鬼滅の刃の舞台となっている大正時代の平均寿命は40歳。命を賭すという精神性は、おそらく戦前の人が当たり前に持っていたのではないかと想像する。大事な人を守るために今の自分にできる最善のことをしよう。命が次につながっていくんだと願いながら、あとの人に託していたのかもしれない。

一方で無惨は仮死状態で生まれた。”生きること”そのものが目的で、そのためならなんだってした。

昔は生老病死が身近にあった。植物が春になると芽吹き冬になると枯れるように、歳をとったら老いて死ぬことも”自然”なこととして小さな子どもたちも知っていた。知識として知っているというよりも、体感としてわかっていたのだろう。

戦争時代を経て”生きて欲しい”と願いを託された私たちは、”生きる”ことが目的になっている。死が忌み嫌われて「身近なもの」から「病院や施設で起こるもの」となった上に「人とつながっている実感」も持ちづらい。”想い”をあとの世代がつなげてくれるんだという信頼がなければ、”自分”が生きることに執着してしまうのかもしれない。

②絶望を一人で超えられる人はそうそういない。

鬼殺隊のみんなも、鬼になってしまった元人間も、各々のストーリーがありそれぞれが絶望の淵に立っていた。炭治郎は家族を殺され禰豆子を鬼にされた。鬼の一人、上弦の参・猗窩座(あかざ)は、病気の父親の力になりたいと盗みを働くもその気持ちは父に届かなかった。その後も婚約者と義父を毒殺されるというエピソードを持つ。

どちらも絶望を感じていた。違っていたのは、そのとき側に誰かがいたかどうか。炭治郎には禰豆子、富岡さん、鱗滝さん、伊之助、善逸、、、後に出会うたくさんの人が周りにいた。ときには優しく、ときには厳しくそれぞれが側にいてくれたから、己の不甲斐なさや弱さを優しさや強さに変えていけたのだろう。

鬼になった人が絶望の淵にいた時、そこにいたのは無惨だった。絶望に優しく厳しく寄り添うというよりは、無惨の目的のために絶望の隙に入られたようだった。

絶望を感じることなく生涯を終える人は多分いない。誰もが痛みや悲しみを抱えながら生きている。そのときに誰か一人でも側にいて話せる人がいたら、絶望の中から希望を見出すこともできるだろう。

③鬼の無念も浄化される

鬼滅の刃がこれまでの漫画と違うところは、強さを競ってやっつけて終わりなのではなく、鬼が鬼になった理由が描かれているところだ。鬼殺隊との戦いを通して、人間だった時の記憶を取り戻し、最終的には成仏するように消えていく。

今を生きる私たちも、傷つき、絶望に打ちひしがれている時、鬼のような生き方をしているかもしれない。誰彼構わず当たり散らしたり、敢えて人と離れるようなことをしてしまっていることだってあるだろう。

誰でも鬼になりうるが、人を思い「あなたのことを思ってるよ」と言葉や態度で伝え続ける人はみんな鬼殺隊なのかもしれない。自分の得意な”▲▲の呼吸 ○○の型”は誰にだってある。人によっては美味しい料理を作ることかもしれないし、歌を歌うことかもしれないし、腹の底から笑うことかもしれない。そんな特技を持ってる人同士がつながったら、鬼が人間に戻ることだってあるだろうし、今生を終えるときに”ふっ”と感謝の匂いがすることだってあるだろう。

”生きて欲しい。自分が傍にいなくてもー”と託された私たちは、どんな風に生きたらいいだろう? チベット密教では、生きる目的はなくただ息を吸うだけでいいのだとか。もしかしたら特別に何かを成すとか、キャリアがどうとか、お金をどれぐらい稼ぐとかはそんなに大事なことではなくて、先を生きた人の想いを受け取って”清濁併せ持って存分に生きる”を楽しみ、次の世代にまたリレーする。それだけでいいのかも。

鬼滅の刃を読んでこんなことを受け取りました。皆さんはどんなことを受け取りましたか?

個人的には、一番好きな登場人物は炎柱の煉獄さんのお母さん。あんな凛とした母になりたい。

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