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「まれびと」である自分

高知新聞の7月13日の毎月第二木曜日折り込みフリーペーパー「ミリカ」より、棚機(たなばた)伝説についての記事があった。
高知県在住の民俗研究家の岩井信子氏の執筆したものだった。

たなばた伝説の中では初めて知るものだったので、興味を惹かれた。

棚織女(たなばたつめ)は閉鎖した集落の川上で機(はた)を織る未婚の処女であった。
川上はその水脈にある田畑をうるおすムラの命の源泉。
まず第一に守られるべき神居ます聖地であっただろう。

遠くから集落を訪れたマレびとは、

平和と安定を望むがゆえにムラの中に閉鎖された血縁関係に新しい種をもたらす神として歓待される。

そしてムラの選ばれた神女である、
たなばたつめに娶せられる。

それが一夜限りのものになるか、
マレびとがムラびととしてその地に根をおろすかは

二人の相性次第だったのかは、想像するしかない。

願わくば、未婚の処女の相手になる人物がふさわしい人格をそなえているか
ムラびとたちに精査され、
かつ、たなばたつめ本人も選択権があったことを祈るばかりだ。
その辺にいる鳩だって、なんか気に入らない個体とはつがいにならないのだから。
直感を優先する原始社会であってほしい。


さて、
私は女性であるけれども、
この伝説のたなばたつめとは今生は全くシンパシーのない身柄でいる。

ただこの伝説の記事をよんで改めて思ったのは、

「土地に対して」
「まれびと」である自分という感覚は
生まれたときから無意識にある気がする。ということだ。

客人とかいて(まろうど)とよむ。これも最初は「まれうど」だったのだろう。

父と母にはそれぞれ生まれ育ったムラがあったが、
私たち姉妹は生まれた時から「マレ人」としての宿命があった。
土地にも一族に対しても帰属意識が薄い。

どうしても土地や文化や一族を守らなくてはならないような背景が存在せず、
よく言えば自由、裏を返せばアイデンティティが不明瞭、
なのだ。

魂が帰る場所がはっきりしない自由も、なってみればさみしいものだ。

そして育った場所はそういう家族がほとんどの地域だったので、
なんの違和感もなく、
「大多数のまれびと」として生きていた。
(大多数になれば全然「まれ」ではないのだけれども)

高知だけではないと思うが、
少子高齢、過疎化がすすむ自治体ほど
ムラの空気はのこっているように思う。
それは先日訪れた岩手県北でも感じた。

「まれびと」は自分で選べる。
どこで根をおろし、
どこで土に還るか、を。

ただし、選ぶためには、自分自身の努力と力がいる。

子どもたちにも、教えておいた方がいいだろう。

ムラびとから見ると、
たなばたつめからすると、
贅沢な特権だろうか。

そうかもしれない。

それぞれの立場になれば、
ムラビト、マレビトと二元論的な話でもなく、
あえて二元論にしてしまえば、
お互いに隣の芝生は、まあまあ青くみえてしまう。

ただそれだけだ。

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