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介良パワーセンターがパワースポットに挟まれてるって話③本土決戦の要塞だった鉢伏山



①②の続き、というか、番外編です。

介良パワーセンターや介良川親水公園から南に見える鉢伏山は、

寺社の点在する、古来から信仰の山という面もありますが、

日本の敗戦が濃厚になった

太平洋戦争末期の1945年には

本土決戦に備えて、

帝国陸軍第11師団司令部が置かれました。

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ホンマかいな。

ホンマです。

山腹に、最後の師団長の言葉が残っているそうです。

以前にもご紹介しましたが、この山頂付近には、縦横に溝が掘られた跡があります。
太平洋戦争末期、米軍上陸作戦に備えて、ここに守備の陣地が構築されちょったがです。鬱蒼とした薮に囲まれちょりまして、最近ヒトが訪れた形跡はありません。尾根筋を上り下りし、しばらく行くと、眼下に潮見台ニュータウンを見下ろす見晴らしの良い場所に出ます。そこからは東に連なる向山や南の琴平山、そして太平洋と香長平野が見張らせます。この頂上界隈に塹壕がたくさん掘られちょった意味がわかります。米軍上陸のすべてが鳥瞰でき、把握できるきですね。潮見台ニュータウンから頂上界隈への山道は、ほとんどヒトが通った形跡がなく、この先通れるがやろうか、と不安になるような鬱蒼とした茂み。
住宅地のしゅっと上に、戦争の生々しい痕跡があることを、もっと知っちょってもかまんがやないですろうかね。(中略)枯れた樹木が倒れ込み、以前にも増して荒れ果てた感が横溢しちゅう、第11師団司令部跡。乃木大将も師団長をつとめたことのある名門第11師団は、太平洋戦争末期、この土佐の山中に司令部を遷し、米軍上陸抵抗作戦をやろうとしよった訳です。昭和 20年8月15日、終戦となり、夥しい塹壕や防御施設とともに不要になった第11師団。その師団は錦兵団とも呼ばれました。
この荒れ果てた山腹にある碑には、「嗚呼 錦兵団司令部之跡 昭和二十年九月十二日師団解散ニ方リ 第十一師団長陸軍中将 大野廣一書」とだけ刻まれちょります。

引用以上です。

ひまわり乳業の社長さんは歴史や遺跡がお好きなようで、ご自身の足で歩かれた地元高知の様々を詳細にブログに書いているのでよく参考にさせていただいてます。


↑高知の地元企業、ひまわり乳業の社長さんのブログ

1945年6月に軍属民間含めておびただしい被害で終わった沖縄戦のような地上戦が、

同10月に高知でも計画されていたそうです。

8月15日に、戦争が終わらなければ。

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あの山からは、

海岸沿いの平野部が一望出来て、

上陸するだろう敵兵を把握するのに都合の良い立地だったそうです。

どこまでも太平洋に大きく開けた、

高知の海岸線。


坂本龍馬が眺望し、

ジョン万次郎が船出していった

太平洋。

海の向こうはアメリカ。

本土に空襲がもたらされ、

もう負けるだろうという戦時下に

司令部の置かれた

介良周辺の緊迫感は、

いかばかりか、私には計り知れません。

もしかしたら軍事機密だから、

住民には、知らされなかったかも。

でも、わかりますよね、多分。

平野部にぽかっとある山なんで。

兵隊さんがこっそり出入りとか難しいだろうし。

鉢伏山には縦横に軍事用の溝が掘ってあったらしいです。


ただ多分、

緊迫した中にも日本の四季はめぐり、

美しい風景があったのだとも、

親水公園から鉢伏山を望むことで、改めて感じられました。

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変わらない自然の営みの中で

人間は、戦争をする。

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古いことを調べたり、興味を持つことに、

生産性がないという考え方もあります。

現に保存のための予算がつかず、

壊されていく遺跡や遺構は数知れずあります。

この鉢伏山の付近にある南国市の向山戦争遺跡は、

新しく出来た高速道路のために、取り壊されたそうです。


以下ひまわり乳業社長さんのブログ、にっこりひまわりから引用です。

太平洋戦争末期、沖縄を占領した米軍は、次は本土へ攻め込んでくると思われちょりました。
実際、10月には高知へ上陸する作戦(九州上陸が目的で、その陽動作戦)が計画されちょったので、
もし8月に終戦になっちょらんかったら、高知平野で、あの沖縄戦のような悲劇が生まれちょったかも知れん訳です。山田の新改に司令部を置いて、米軍の上陸と占領を阻止しょうとしちょりまして、何と12万の兵力を高知に配備して、
本気でここで戦争をしょうとしよりました。このにっこりでも、南国市の掩体壕やトーチカ、池の浦戸海軍航空隊跡、高知空港横の白菊部隊の記念碑とかを紹介してきましたが、今日の遺跡はすごいものです。ここは、高知市と南国市の境界から少し南国市に寄った、潮見台の団地の東に位置する山。この山には、たくさんの陣地跡や、兵器を入れちょったと思われる大きな壕の跡、そして、たてこもって米軍と戦おうとした地下道が、そのまんまの姿で残っちゅうがです。写真は、そのトンネルの中。全長100mちょっとやそうですが、もし、8月に戦争が終わってなかったらもっと縦横に掘られて要塞になったがかも知れません。こうやって発電機で電灯を点して見れるようにしちゅうがは、今回のみ。この、地面の溝に木が置かれ、その両端から柱を立て、板で天井をこさえて崩れたりせんようにしちょったと思われるそうです。溝の木は、朽ちてはおりますが残っちょりました。何で今、公開されたがか。それは、ここが、高知東部自動車道の工事で、すべて取り壊されてしまうきながですね。この、ものすごい戦争遺跡が、こないだうちからちくとお話しゆう道路の工事で全部無いなってしまうそうです。ホントに、何が大切で何をせんといかんがか、何にお金を使うて何を守っていかんといかんがか、産業振興とは何ながか、何をするがが産業振興ながか、そんなことを考えさせられた現地説明会でした。

引用以上です。


過去に囚われるな、という言葉。

いまが大事。いまを楽しもう。

私はそれには異論はありません。

過去のために、

今や未来が犠牲になるのは、避けたい。


しかし、温故知新という言葉が

ずっと残り続けていることも、

また真理です。

古きをたずね新しきをしる。


歴史は、

現実の自分の弱さから目をそらしたり、

誰かを差別して自己肯定するための道具でもなく、

繋がれた自分の命に感謝して、

教訓を活かすために

学ぶものでは、

ないでしょうか。


自分の命に感謝することも出来ず、

より平和に生きる教訓を

得ることもできないのなら、

その歴史教育は何かが、

抜け落ちているのでは

ないのかしら。


私はたまたま自分が歴史が好きだし、

父も祖父も叔父たちも歴史に興味があったので、

様々な歴史につながっていくことができました。

でも、それが無かったら、

何も知らないし、

自分の身の回りにあるものに関心を持つことも、

もっと少なかったかもしれません。


私は、自分の知ったこと見たものを、

どうやって伝えていけばいいのかしら。

多分、出来ることは少ないのだけど。


過去は囚われるものではなく、

自分を活かすためのものです。

自分を傷つけるような活かせない過去なら

捨てていいと思います。

でも、いつ活きてくるかは、

実はすぐにはわからないんじゃないかな、

とも最近思います。


もし介良パワーセンターに行くことがあったら、

南の鉢伏山、介良富士を探してみてください。


そしてもしよければ、

あの上に悲壮、虚無、

様々な覚悟で臨んでいただろう

先人の心のうちを

想像することも、

先の大戦で亡くなられた方の

御供養になるのかもしれません。


歴史や戦争を知らずとも、

歴史や戦争の影響に

心身、全く無関係に生きている人は、

この国に誰もいないのですから。

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