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学校の歴史の勉強が面白いわけない。


上の子が一生懸命テスト勉強しているのを見ると、
不憫になる。

この暗記した歴史の知識は
あと数年経てば綺麗さっぱり消えていくだろう。

それは今こうやって文字が右から左に抜けてって苦労している子も、
割り切って要領よく丸暗記できる子も等しく、だ。

何のために、興味のない文字と数字の羅列に
この若くて貴重な時間を使うのか
腑に落ちてない。そりゃそうだろう。

無意識に自分に関係ないと思っている
遠い昔のことを
学校という限られた居場所で
先生という
他人の評価を得るために学んでいるからだ。


夫は
私より実は余分に高等教育を受けているのだが、
中学生の時に我が家の上の子よりずっと優秀だったはずの彼が
社会のテストで正解していたはずの知識は

今では綺麗さっぱり
中学生の我が子以上にまっさらな更地になっている。

自分に関係ない、
興味のないことどうにかして丸暗記して得たのは点数だけで、
自分に連なる歴史や
アイデンティティを感じること、
その機会もなく、
立派な真面目な社会人をしている。

それを責めたり恥じる人は
日本から出ない限りは、ない。
(日本史や日本文化を海外の人に質問されて答えられなくて初めて知識の少なさに気づくらしい。)

彼をディスってるのではなく、
それが、
アメリカの属国になった
戦後日本の目指した教育の成功、
完成形なのだ。

民間人への夜間無差別爆撃を繰り返し、
(昼間は気まぐれに機関掃銃で追い詰めて狙い撃ち)
大量殺戮目的の新型爆弾の実験台にした
敗戦国の歴史教育なんて、
真面目にやってやろうというなんて
お人好しの占領軍がいるもんか。

もう2度と同じ事が起こらないように、
都合よく操りやすいように、
まず工夫すべきは公教育だっただろう。
自分に刃向かった国の国民のアイデンティティの育成など邪魔なだけだ。

(これは陰謀論でもなんでもない。
起こった事実を並べるとそういう筋で考えるのが自然なだけだ。日本が戦勝国だったらきっと似たものになるだろう。)


団塊ジュニアとして生まれた私が
日本の歴史に興味を持ったのは
本当にたまたまで、
生まれつきの自分の嗜好、
それを後押ししてくる
歴史に興味がある父とその親族、
家にあった「小学館まんが日本の歴史」のおかげだった。

夫は大多数のスタンダードな形になり、
私が、
戦後の日本史公教育の成果としては
わりと
異端なのだ。

先生方も多くの制限の中
工夫されていて、
出来るだけ授業を良い時間にしようとしてくださってるのは
感じる。面白い先生に出会えて歴史に興味を持つ子も勿論いるだろう。

それでも
多分、多くの子が
学校というハコの中だけでしか
自分の国や地域の背景や
成り立ちに触れる機会がない。
(地域のコミニティーが残ってるところは、多少マシ)

自分の目の前にないことへの関心はわきにくい。

子どもたちのそばにいる
大人たちがそもそも、
ものごとの背景に目を向ける意味が
よくわかっていない。

歴史は長かろうが短かろうが、
大きくとも小さくとも、
今ある事象の

背景なのだ。

様々な背景に思いを致して
今を見る、という作業は

仕事でも家庭でも人間の生活の中で
どんな場面でも必要なことだ。

背景であり、
自分を取り巻くものに確実な影響を及ぼしている
人間の歴史。

それを生来の趣味嗜好のない人に
どうやって重要性を伝えていくかは、
私も目下模索中。

無関心がスタンダードな
社会の雰囲気には非力なのか
なかなか、勝てない。

どこから来たのか、を知らぬまま、

どこへ行くのか、
どこを目指すのかを
イメージすることは

難しいのではないかしら?

アイデンティティというものがもし重要ならば、
それは未来をつくるためだと
私は思う。




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