忘れないでいること
「劣等感」という言葉があるように、人の感情とはそういった自分を取り巻く環境に否応なしに左右されている。
辞書を引いて「劣等感」という言葉を調べてみると、「自分が他人より劣っているという感情」とある。類義語には「コンプレックス」の文字まで。
わたしはきっとお気楽な性格で、思いつめたり夜も眠れないほどあれこれについて考えることなどはまずない。
ただ二十数年間そうして生きてきたわたしにも、ある種の「劣等感」というものがついて回るようになってしまっていた。
こわいな、と思ったのがその「劣等感」は足音も影もなくわたしのすぐそばにやってきていて、ぴたりと離れなくなってしまっていたからだ。
ずっしりと重くのしかかってくるその暗くて得体の知れない、いままでに感じたことのないもの。
圧。押しつぶされる。
きっかけは、特別なにかがあったわけではないのだと思う。自分が何者にもなれないことに、ある日突然気づいてしまっただけだった。
それって多くのひとたちは学生時代や将来の夢について考えるようになった時機に、だれに教わるでもなく自ずと感じることなんじゃないか。
だとしたら。
どうやらわたしのその時機はずいぶんのんびりやって来たようだ。
「このままでいられない」
「きっとどこかで何かに出会えるんじゃないか」
大いに無謀だけど、上京を決めたときのわたしはそうやってのぼりを上げるような気持ちでいた。
けど手のひらを開くとそこにはなにもなかった。
見える見えないの話ではない。ほんとうになにもなかったのだ。
人に語れるもの、自慢できる特技、だれかを導く知識や言葉。
そのどれも持ち合わせてはいなかった。
ごあいにく様、といった感じだった。
気を持ち直すにはなにをすればいいのかわからず、そしてなにもしたくなかった。
からだを起こすことすら億劫で、ほんとうに全身が空っぽだった。
東京のちいさな部屋で、わたしは途方もなく一人ぼっちになっていた。
それでもいまここにいる自分を受け入れること、ゆるすこと。
はっきりとは覚えていないけど、そうすることで少しずつわたしはわたしに戻っていったんだと思う。
他人を羨ましく思ったり、自分の足りないところばかりを気にしたり、いじける自分にもっと嫌気が差してしまったり、もう散々だった。だめだめだった。
でもこれまで自分が過ごしてきた、大切な人々との時間や自分自身の忘れないでいることを思い返しているうちに、だれもがだれでもないことに気がついた。
あんまり沢山のひとがいて、そこに埋もれてしまうことは当たり前だけど、それでもいまわたしが大事にしていることもひとも、それはわたしにしか守れないことだった。
なんだ、わたしも案外いい感じにやってるんだ。そう思えるようになった。
自分のことはまだまだ誇れたもんじゃない。
それでもわたしが愛するひとのことについて自分の言葉で語ることができたのなら、それはとても素敵なことに違いない。
大好きなひとがいっぱいいるなあ。
これを書き残しながら会いたいひとが次々に浮かんできてしまった。
さあ、だれから順番に愛を伝えようかしら。
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