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祈りの師匠

困難の中にいた親友へ祈ったことがその通りに実現した2020年のスペイン巡礼を契機に、私は神の不思議さというものに惹かれ始め、いろんなことを祈り、いろんなことを受け取ってきました。また、祈りについての考察について書かれた本を、神道・キリスト教・ネイティブアメリカンの土着信仰を問わず、読めるだけ読み漁りました。行き着くところはひとつだなぁ、そしてそれは私が祈りの中で体験し味わってきたことと合致しているなぁという確信を強めました。「祈り」とは自らの内省といった側面もあると思いますが、その先で、父なる神と一対一で対峙をするということが起こると思います。

心を研ぎ澄まして祈れる時、まったく祈れない時。同じように祈っても、祈りが届いて何事かが起こる時、沈黙の時。実に多様なパターンがありました。誰かに教わったわけではありませんし、祈りの指導者がいるわけではありませんが、まさに神その人本人が祈りの師匠なのだなぁと思わされます。私の祈りの内容も時を経るごとに変容し、私の内面も変容してきた実感があります。「あれが欲しい。これを達成したい」といった自分に関する具体的な欲求がグンと薄れ、「より神の望む私の在り方に近づいていきたい。そのための助けを大いに求める」という祈りの態度へ変容してきました。必然と、私の心が欲しがるものは、あるべき私の在り方に必要な物事となってくるようです。これには自分でも驚いています。同年代の同期たちの欲しいもの、関心のあることと、どんどんと乖離が生まれてきています。一通り味わい尽くして、経験しつくして、「あれ。自分は何をするんだったかな」と立ち止まる50代くらいの人たちの方が、話が合う傾向にあるようです笑。

しかし他人に対して祈る時は、具体的な祈りが必要になります。差し迫った問題は具体的だからです。仕事のこと。人生のこと。ひとつ、わりと最近で、忘れられない祈りの体験がありました。

10歳くらい年上の女性の友達がいます。昔インターンでお世話になり、とても可愛がってもらった方です。長年メンタル不調に悩まされ、薬の力を借りながら、勉学に仕事に打ち込んで多くの素晴らしい成果を上げてきた人です。彼女自身はメンタル不調のこともあり、妊娠出産には後ろ向きでしたが、旦那さんは子供を強く望んでいました。何年も平行線だったのが、ついに彼女が決心し、旦那さんが一手に育児を引き受けるから彼女はキャリアを継続するという合意のもと、赤ちゃんがやってきました。
しかし妊娠中はメンタルの薬を飲むことはできません。数ヶ月して、彼女と電話したとき、
「あまりにメンタル不調が苦しいから、いまどちらを選ぶかの状態まできている。旦那さんも、自分の決断を尊重し従うと言っている」ということを打ち明けられました・・・

もちろん一般常識としては最善の結末は、どちらも守られることです。ですがどちらかしか本当に選べないのだとしたら・・・場合によってはどちらも失われてしまうかもしれないという可能性も無くはないのです。何が最善か私は決めようもないので、すぐに祈ることにしました。
何を祈ったかよく覚えていないのですが、神の領域の介入がありますようにという内容だったかと思います。そして真に3人全員のためとなる結末となりますように、と。

そこで鮮やかに、少し大きくなった男の子と、両側に両親がいるというような図が脳裏に浮かんできたのです。そこで「ああ。すでに結末が決まっているんだ」と理解し、心から安心することができました。

やがてまた数ヶ月経って、無事赤ちゃんが産まれ、友達は復職することができました。

いままでの経験を省みると、祈るとき、そして祈りへの応答がやってくるときには時差があるものです。祈って、時間がいくらか経って、そして何かの出来事や誰かの発言、または思いもよらないアイディアが湧く、という形をとって「応答」が与えられる、というのがそれまでの私の理解でした。
こんなにもすぐさま答えを見せられる。しかも視覚的に・・・というのは、今のところ、このことしかありません。

祈りの世界が見せてくれるもの。
祈りを通して神が私に何らかを教えようとしているもの。

それは一体なんだろう。あまりに奥深く、あまりに広く、あまりに理解の範疇を超えているけれど、私はこの祈りの世界に、しっかりと掴まっていこう。そして進んでいこう。祈りの世界をもっともっと探究しよう。そう思っています。






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