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ヒーリングジャーニー4

どうしてかわからないが、幼い頃から自分には魂というものがあり、それが本道で、自分はその魂に沿って生きなければわからないとなぜか知っていた。
知っているのに思い出せなかったり、自分がいる場所やいる人、環境にそぐわない、フィットしない感覚があるというのはなかなかに苦しい。
いつも何かちぐはぐな服を着て、目隠しをされているような、どっちに行って良いのかわからない感覚があった。
とにかく、この地球にいちいちびっくりしていたのを覚えているし、今もまだこんなに仕事をしたり、結婚離婚や、子育てや、人と付き合ったり、人より職業柄たくさんの人と話をしている方だと思うのだが、まだびっくりしている自分は健在だ。
魂の声を大きい意味ではいつも聴いているというか、沿っている自覚がはあるが、
なんせ入った器や家系ラインというのかな、レベル高め設定だったのかはわからないが、とにかくそちらに足を取られる人生である。
誰といても、社会的成功をしてみても、どこに旅に行っても、どんなワークやセミナーを受けても、どんなサイキックや霊能者や占い師に助言をもらっても、どうやら、自分の中を自分で取り組まないと無理らしいと悟る。
そして、このとっ散らかった思考癖というか、どこかでダウンロードしてしまったこの苦しみのもとを手放したいと心から願っている。
軽やかに、悦びに満ちた世界にいつも何があってもいると決めたい。
苦しみや恐怖や不安、恐れに縛られた自分を解放してあげたい。
そして、それができるのはどうやら自分だけらしい。
そして、実践あるのみ。
みてくこと。自分の中を丁寧にみていくこと。
こうあらればならない、こうに違いない。
例えば、絶対、無理に違いない。こんなことをしても誰も見向きもしてくれない。
馬鹿にされる。笑われてからかわれる。という恐怖。
こんなことをしていたら、お金がなくなってしまうという恐怖。支払われなければ、自分は何もかも終わるという恐怖。糾弾され、罵られ、罵倒され、殴られたり、蹴られたり、閉じ込められたらり、という恐怖。
お金がなければ、幸せになれない、誰にも話を聞いてもらえない、認めてもらえない、なぜなら私、なんか、に、誰も何もせずにお金や愛はもらえないと知っているからだ。そんな嵐のような恐怖にまみれた思考が全身を数秒で走り抜ける。
結果、この毒は体中を駆け巡り、体は力を失い、疲れ果てる。
それを外から補いたい。お金を使って、何かを得たり、身に付けることで。
また、食べ物で力を得ようと補おうとする。
何かの文章を読んで、読んで、自分の足りないところを補いたい。
ここに、満ちている、豊かさの波動は皆無だ。
朝のウォーキングで、豊かさの感覚が生まれることがある。
朝日を浴びた時、感謝とありがたさと、愛されている感覚。
鳥のさえずりや鳥たちを眺める時、喜びと豊かさを感じる。
空や海という自然、木々や草花に触れた時、実った果実をみた時、
この上なく自分や豊かで、無償で宇宙は地球は私に豊かさを与えてくれているんだと感じることができる。
私は子供の時、自分の支えになっていたのは周りにふんだんにあった自然だと思う。人間は怖かったけれど、清い川の石を退けたときの沢蟹たち。原っぱ一面に咲く、たんぽぽやクローバーの花畑。夏の畑にできたきゅうりやトマト。
季節で移ろう山や木々。お花の香り。むせ返るような夏の草の匂い。竹藪で探す、竹の子の芽。いつも自然が私を守ってくれているような、エネルギーを与えてくれる感覚、それを幼い頃、体感した感覚は今の私が最後まで壊れないようにセーフティネットとして体内に内蔵されている。
なのに、いざ人間社会に入ったときに、波動の落差にめまいがした。
何を発しているのか。重かったり、攻撃的だったり、人間は何を発しているのかな。私は何に振り回されているのかな。
母は私が保育所時代、この子は敏感すぎて繊細すぎて生きていけるのだろうかと心配したと言っていた。幼稚園教諭をしていた母が言うのだから一般的な子供よりもともとそういう気質だっただろうし、かくゆう母も神経質で初めての自分の子には1日に3回も着替えさせていたらしい。つまり、汚したらすぐに着替えさせるのだ。汚いものは悪。そこで植え付けられたせいか、私は保育所に行っても、みんなでやる砂場遊びや手に絵具をつけて絵を描く時、手を後ろに回してこう言ったという。手が汚れるからいやだ。と。
外の世界は汚いと3歳にしてもう病んでいたのだ。多分母の影響である。

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