ヒーリングジャーニー34

小さい頃、山の中で育った。
自然に囲まれていたが、付き合い?でいとこのお兄ちゃんに釣りに付き合ったり、
幼なじみとザリガニやバッタを捕まえたり、
クローバーの花を摘んだり、一応、自然の中で、人と交わりつつ
誰にも頼まれないのに気がつけばやっていたことが、
書くことと本を読むこと。お話を想像して絵を描くこと。
本は母親の教育方針で、小学1年生や、りぼん、なかよしなどの漫画はNG。
あと、今思い出したけれど、キャラクターがついた靴とかも絶対禁止だった。
みんなは履いていて、羨ましかった。
あれ、なぜだったのか、亡くなる前にきいておけばよかった。
話を戻すと、小説とか図鑑とか読みのは買ってもらえる。
買ってもらうものはすぐに読んでしまうので、近所似合った公民館の図書室は行きつけ。
田舎の村の公民館の図書室の規模は知れたもので、少し街の大きな図書館にも借りに行ったり、たまに小学館とか光の国キンダーブックとか、移動のトラック?ワゴンに本を入れて、売りに来る人とかからも買ってもらってたけど、あれってなんだったんだろう?
とにかく、本が読みたくて読みたくて、父や母の大人の本も果敢に読んでいた。
暇だったんだけれど、外で遊ぶのは苦手だった。
母がもともと出産前までは幼稚園教諭をしていたので、児童心理学の本もたくさんあったけれど、児童なのに、児童心理学を読んだしていた。
今、考えたら、ちょっと心配。
読むものがなくなったら、落書き帳に話を作りながら絵を描く。
出かけたら、落書き帳はよく買ってもらえた。
でも落書き帳って、すぐに書くところなくなるので。
とにかく、親が取っている新聞の広告の裏が白いところを取ってもらっていた。
ザラ紙っていうのかな。それより分厚いものが一番ベスト。
好きじゃなかったのは、ツルツルの紙。
ボールペンで書かないと、色鉛筆は映えないし、ボールペンもうっかり触ると
滲んだりして、いらっとする紙。
だけど、紙がないときは致し方ないので、それでも描いていた。
それに飽きると、当時健在だった、祖母の部屋に行き、独演会を始めるという謎の幼児。
プロレスを見ている、祖母の前に立って、偉そうに、テレビの内容と全く関係ない、全く意味不明な解説をとうとう祖母に浴びせかける。
ときには本を持っていって、それを読み聞かせのように、またまた無茶苦茶解説して何かを教えたがる幼児。
祖母とは血が繋がっていなかったのだけれど(分家の父が、本家の子ができなかった祖父母のもとに、養子に入ったため。祖父は私が生まれたときには、もう他界していた。)とにかく、7歳で亡くなるまで可愛がってもらった記憶がある。
私の無茶苦茶な解説?に、また上手く合いの手を入れながら、のせてくれるので、
私は鼻息荒く、調子にのり、腹を突き出し(幼児体型なのでね)
気持ちよくしてもらった。
祖母は亡くなるまで、どこからともなくやってくる爺さんが複数いて、とにかく
モテていた。が、このようなのせ上手、ほめ上手テクを持っていたからだと思う。
すごいなー、賢いなー、ええ!!はー!なるほどー!!すごいー!!!
賢い子やなー!!!
と、全く内容のない私も無茶苦茶話を、褒めまくってれるのだ。
実の親にもされたことがないくらい。
私の財産。
明治生まれでいつも着物を家の中でも来ていたな。
飴屋をやって商売してたらしい。
無条件に肯定してくれる大人が1人いただけでも、記憶の宝物だ。
私が今でも調子にのっちゃうのはおばあちゃんに気分よくしてもらった名残かも知れないよ。
ここのところ、好きなことだけ残りの時間を使おうと思って仕事したり、プライベートも過ごしているが、本当、幼少時と同じ、書きまくって、しゃっぺって、
本を読んでいる。
それが、幸せ。本当に幸せ、
本来の自分に戻っているような気分。
満たされてくるのだ。自分の内側が。
自分を取り戻していくような感覚。
ヒーリングジャーニー34日目。

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