無駄を愛する者たちへ

「でも、けっこう世間の多くの人が、それをむだやったと言うことを許してくれない風潮みたいなんがちょっとあって・・・。そういうところに、なんかしんどいなって思う。むだはむだでいいじゃないのっていう、そんなに自分の人生が隅々まで何かしらの栄養がないとあかんのかっていう」

これは髭男爵山田ルイなにがしのインタビューから引用した。この思想に共感したというよりは、基本的には社会に対して何も言うことがないという立場をとっている私が昔から感じていて、最近その感覚がどうやら間違いではないことに、このインタビューしかり自分と似た意見に外部から触発され気付いたという表現が正しそうだ。

それは「負」を許容できない空気感が蔓延しているということである。
 

テイストが急にシリアスになり大変恐縮だが、数日前に読んだ「黒子のバスケ作者殺害予告事件」の被疑者の最終意見陳述の中で、その答えのヒントになりそうなものが言及されていた。

「努力を巡る議論で「「努力は必ず報われる」のではない。「努力は報われるとは限らない。しかし努力しなれれば報われない」が正しい」という話がよく出て来ます。この議論には重大な欠陥があります。「努力すれば報われる可能性がある」という世界観を全ての人間が持っているという前提に立っているからです。この前提を持てている人間は「努力教信者」です。しかし世の中にはこの世界観を持っていない人間も存在するのです」

努力教信者だらけの努力教国家。私はそんな大それた話をするつもりは毛頭ないけれど、言っていることはよくわかる。

 
深入りせず、この努力教について一瞥した上で髭男爵の話にもどると、無駄を絶対的に省こうとするあれは何なのだ。まあ資本主義的な思想だとして、それでも毒され過ぎではないか、という意見が出てきても良い頃である。

私はというと、そういった努力教信者たちが自分たちの範囲だけでよろしくやっているだけならば目くじらをたてるつもりはない。宗教の自由は尊重したい。しかし、言葉を選ばずに言うと、一番ムカつくのは、異教徒を自分の宗教観の範疇で理解した気になっている人々である。それはすなわち「無駄なものなんてない」と言う人々である。

例えば、私は家を出て少し歩いて忘れ物に気付いて取りに帰ることによって無駄にするあの15分がなんとも好きである。

その15分に対して、価値を見出そうとする。大抵の場合「自分次第で」みたいな思想が付録でついてくる。違うのだ。あの15分は完全に無駄なのだ。

思えば、努力教にしても、無駄を毛嫌いする人たちも、この世を真空にでもするつもりなのだろうか。あの15分こそが、私が人目も憚らず、自分の意思で深呼吸できる時間なのだ。エンペラータイムなのだ。私のような無駄を愛するものは、このような時代が生み出した憐れな孤児なのか。そうだとすると、あんまりだ。

あざます