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『運が良いとか悪いとか』(8)

(8)

狩りをする鳥の飛翔の鮮やかさから、なにか
神々しいものを感じたのが、最初、たった一
人の人間(一個体)が抱いた観念だとすれば、
この観念はその個体の内でだけ維持されてい
くこともあれば、同時にペアを組む他の個体
(異性に限らない)と、さらには三個体以上
の集団でも共有される可能性があり、三つの
すべてにおいて共有されていくのもまったく
普通のことだ。

従ってそれぞれの次元での身体性の取り込み
があるわけだが、それらが観念という異和の
べき乗を促す強さは、その人間集団がどうい
う集団を維持しているかで違ってくる。

集団がメンバーたちのごく緩い結合で成り立
っているのか、それとも強い絆があるのか、
個々の成員はどれほど集団に拘束されている
のか、またペアの結びつきはツガイで、親子
で、友人隣人間でどれほどの強さを持つかな
ど、暮らし方をまず動物次元で決めている身
体性が物を言う。

例えばその成員が集団の振る舞いに強く拘束
され個体としての振る舞いには自由度が少な
い暮らしをしているならば、鳥のハンティン
グに感心するような経験も個体としてより集
団の中で集団と共にすることの方が多いだろ
う。

すると身体性の内に最初に観念が孕まれるの
も、それについての反復も、集団として振る
舞う身体性においてなされることが多く、個
体として振る舞う身体性が観念を孕む機会、
またそれが反復される機会は相対的に少ない
はずだ。

さらに、集団レベルで孕まれたシンボル思考
(観念)は、やはり集団レベルで働く身体性
からの打ち消しを浴びたときに最もべき乗し
やすく、のちに個体レベルで似た経験をして
身体性を取り込むことになったとしても、そ
こには一種のズレがあって集団レベルの経験
に比べればべき乗し難いのではなかろうか。

同様に、集団でした経験をペアですることも
あり得るが、それらはべき乗を導く反復とし
ては、どこかしらズレた(弱い)ものだろう。
仮に外界の現象としてならほとんど同じと言
えても、観念が生じたときの、つまりは異和
を孕んだ身体性が、個体と、ペアで振る舞う
とき、集団で振る舞うときとでは異なってい
る。

また、集団で共有されるシンボル思考ならば、
集団で共有されているというだけですぐに神
話的なものに結びついて行きそうにも思われ
る。だがそうだったとしても、現在のわたし
たちが神話と言われてすぐに思い浮かべるよ
うな、その集団で疑いもなく共有され常識と
なり語り継がれていく輪郭のハッキリした世
界観(神話)が成り立つまでには、長い長い
道のりがある。

たとえばここで繰り返し例にあげている鳥の
鮮やかな飛翔に接して抱いた
(何か神々しいものの観念)
について言うと、これが最初に集団の内で共
有されたときには、それを指す言葉がなく、
というより言葉そのものが成立するかどうか
のあわいにあって、人間意識は
(世界を語ることの意義)
のはるか以前に位置している。

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