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支えになるか、クラシック? (7)

十代のわたしには、クラシック音楽が持って
いる「内向き」ということの積極的な意義が
ほとんど見えていなかったと思います。

(ロックやポップスほど速くは効かないけど、
じわじわと内側から温まって、ずうっと暖か
い)

みたいな実感はありましたが、何と言っても
それ以上に外向きのことばかり意識していま
した。

(クラシックなら差をつけられそう)
(趣味として高級だ)
(何となく一目置かれそう)
などなど。

書き連ねていると哀しくなってきますが、当
時の自分が
(自分を飾り立ててくれる何か立派なもん)
を求めていたのは確かです。

しかしその気分が、例のA先輩のごちそうし
てくれたキャラメルコーン入り紅茶の中に半
分以上とろけてしまうと
(おれはクラシック聴いててホントに楽しい
のか?)
という自問だけが残りました。

そこへあの滝沢がやって来ました。A先輩の
テントの中に先客(常連?)としていた、滝沢
です。
「今日の帰り、A先輩の家に寄るんだけど、
あんたも行く?」
わたしは他人から、それもクラスメイトから
「あんた」
と言われたのはこれが初めてです。

スットコドッコイほどではないが、このあん
たにも内心たじろぎつつ、わたしは聞き返し
た。
「おれ、呼ばれてないけど……いいの?」
「大丈夫、大丈夫。Aさんは『来るもの拒ま
ず』だから」

滝沢はこう提案します。
「最初の一時間、おれの聞きたい曲かけるか
ら、次の一時間はあんたの好きな曲……って
感じでどう?」
彼の言う意味が初め分かりませんでしたが、
どうやら先輩の家にあるレコードのコレクシ
ョンを、好き勝手に聴かせてもらえるという
ことらしい。

実際に、行って見るとそこには壁一面がレコ
ード棚、という当時の図書館の試聴室顔負け
の一室があり、ただし肝心の先輩はどこかへ
出かけていて、玄関に現れたお母さんが
「いいよ、上がって上がって」
というのです。

(勝手知ったる他人の家)
そのままの振る舞いで、離れのような造りに
なっているこの部屋へ入って行った滝沢は、
慣れた手つきで棚からレコードを抜き出して
プレーヤーに乗せました。

ジャケットを見ると、それはリヒャルト・シ
ュトラウスのアルプス交響曲です。それまで
のでわたしであれば
「なんだ、表題音楽か」
とかなんとか、小馬鹿にしたようなことを言
ったでしょう。

古典派以後の大曲では、ベートーベンの3番
以降のシンフォニー、モーツァルトのいわゆ
る3大交響曲、それにチャイコフスキーのピ
アノ(1番)、ヴァイオリンそれぞれのコン
チェルトくらいしか聴いたことがないくせに、
聞きかじりの知識で
(何か現実の事件や対象などを描写する「表
題音楽」よりも、特に現実の出来事とは結び
付けられない「純音楽」の方がエラい! だ
って抽象的だから)
と思い込んでいたわたしは、養老孟司さんの
言葉を借りるならすっかり身体を忘れて「脳
化のヒト」になっていた訳です。

しかしこのときはもう、しおらしく謙虚にな
って素直にアルプス交響曲を聴きました。途
中で2回短い居眠りを挟んで。

曲が終わって滝沢に
「じゃあ今度、あんたの好きなのかけなよ」
と言われたとき、わたしは良い夢からふうっ
と醒めたみたいに、ボンヤリ幸せでした。そ
れはちょうど、アタマを休めて身体に養分を
上げたみたいな感覚です。

「いいよ、おれ」
「あ?」
「あんたがまた選んでいいよ」
と、わたしも“あんた”で滝沢に返しました。

「何で?」
「何でも……」
「じゃあ、ホントにいいの?」
「いいよ」
「ふーん」
そう言っているところへA先輩が帰ってきて
「ああ、疲れた疲れた。今、おれラベルが聴
きたい気分だな」
と言うのです。

「あ、そうですか。じゃあラベルかけましょ
うか? ちょうど今、おれのかけてたのが終
わったところなんで」
「ん? そうなの」
「ラベルの……何にしますか?」
「クープランの墓!」

A先輩は続けて演奏家の名前を言ったのです
が、わたしには聞き取れず、でも滝沢はすぐ
に立ち上がると1分もかからずレコードを選
び出しました。

アルプス交響曲で(ほんとうに登山をしたみ
たいに)アタマではなく、カラダがほぐれて
いたところへ、今度はまったく別種の音楽が
降り注いだのです。

すると、さっき感じたばかりのボンヤリした
幸せ感の上に、なにかあり得ないほどリアル
な幻が重なったようで、わたしはすっかりハ
イになってしまいました。

おそらくこれがわたしにとって
(クラシックがカラダにしみた)
生まれて初めての自覚だったのです。

「お前ら、メシ食ってく?」
先輩にそう言われて我に返ったとき、わたし
は思わずリクエストしていました。
「あの。もういっぺん聴かせて下さい。ラヴ
ェルの、その曲」

(続く)

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