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『運が良いとか悪いとか』(14)

(14)

人間集団が事実認識を積み上げ日常のことは
日常のこととして(格別の自覚はないまま神
神しいものとは切り離して)生活を営み出す
その程度が進むと、具体的な暮らしの場面で
は意識せずとも、かつて
「鮮やかな鳥の飛翔」
に接して生まれた
(神の存在)
の不可分さ、つまり鳥そのものが神であり、
その飛翔の鮮やかさ自体も神であり、これに
接して魂の震える己も神である……といった
全体性はもう保てなくなる。

これは事実認識の蓄積というものが、分析か
ら入って統合に進むからで、例えば気象現象
を大気の状態の事前の変化、雲の形や流れ方
から空を覆う様子の違いなどと分析的にとら
える知能の方向性は、かつて嵐の前の雲行き
に神の荒ぶる心を察して身構え、だが自分自
身も嵐の中でひととき神になった、そうした
あり方をもう背後に置いてきてしまっている。
すると、かつて自分をも含めて実感した
(神の存在)
の全体性は地上で分析的に働く知能を反映し
て、言ってみれば、まず神々しいものを分割
してしまう。またそれは無自覚になされるこ
とだから、分割の後で今度は失われた全体性
をなぞるかのように統合もなされる。

今のわたしたちは人間が周囲の生き物のあれ
これを見て実感した神々しいものと、特定の
気象現象に接して実感した神々しいものとは、
古代人であっても当然に区別されているだろ
うとつい考えてしまうが、それらは区別され
ていない。と言ってまたこれは、それらが同
じとみなされている……という意味ではない。

わたしがここで使っている言葉では、それら
はシンボル思考の産物なので、物事の区別か
ら出発する事実認識(折口信夫なら別化性能
と言うだろう)の対象にならず、あくまで連
想(折口信夫なら類化性能と言うだろう)の
うちに漂っている。

或る生き物を見ていて経験した神々しいもの
は、古代人のシンボル思考によって事物Aや
B、Cなどと結び付けられる(連想で結ばれ
る)が、一方落雷に接して経験した神々しい
ものの方は事物DやE、Fなどと結びついて
行く。だから二つの神々しいものの経験は
「同じ」
ではないのだが、それは結果的に違うことを
体現しているだけで
「違う」
という意識には至らない。恐らくは現代の子
供たちも幼児期にこうしたシンボル思考の、
事実認識との媒介が始まる以前の精神世界を
必ず経験しているはずだ。

地上の(日々の暮らしの)経験で積み上がっ
ていく事実認識では、違いは出発点だが、天
上とつながるシンボル思考では、地上で事物
の相違の自覚が進んで(自律的な日常という
ものが自覚され)これが天上に反映してくる
まで問題にならない。だから、それがやって
くるまで、シンボル思考の対象は別々を体現
していても、これを自覚する必然がない。

しかしひとたび
「鮮やかな鳥の飛翔に接して現れる神々しい
もの」

「驚くべき落雷の激しさに接して現れる神々
しいもの」
とが区別されるようになれば、さらにそこか
ら両者の関係ということも意識に上るように
なるだろう。

そうなると個別に観察されたものを統合しよ
うとする思考の水準が、神々しい鳥を鳥たら
しめている神と、神々しい落雷を落雷たらし
めている神とを共通の神々しいものとする、
そうした認識の地平を生み出さずにはいない。

前節の冒頭に示したような天上世界について
の説明付けは、この水準の認識に達しない限
り成り立たない。そこでは鳥の神々しさに対
して、さらにその鳥を神々しくあらしめてい
る神という存在が思い描かれている。

ただしそのことは一神教の根拠ではない。そ
れは生み出された神々を関係づける思考の水
準であって、地上では暮らしの知恵の蓄積か
ら、つまり事実認識から
(地上のことはすべて神頼みにせずある程度
まで人間が責任を負わざるを得ない)
という自立性の自覚を導いた思考水準が、無
自覚に天上へと反映した結果なのである。

これに対して一神教は、明らかに
(この世に複数の神々がいて人間がそれらを
選べるのでは、統治が完成しない)
といった究極の政治意識、もしくは天上経由
での人間支配に対する異常なまでの執着から
生まれるものだ。(註6)

ともかくも、人間集団が地上の経験から事実
認識を積み重ねて行くことができれば(天上
の助けなしに地上で出来ることの領分が拡大
していくと)、それに従って天上と地上も、
多少なりとも自覚を伴って分離する。

それより遥かに下った後の時代に出てきたら
しいが、占星術の根本に関わる考え方として
よく引用される
「上のごとくに下もまた」
という天地照応の原理は、天上と地上の言わ
ずもがなの分離を前提にした媒介のことばで
ある。

言い換えると、どんな時代になっても
「幾らを星を読んだところで現実をどうする
ことも出来ない」
という実感と
「こんなことが起こっているのはきっと星回
りのせいだ」
という実感とは媒介されるのである。どちら
かが無くなるということはない。科学が発展
して暮らしに浸透していけばやがて占いなど
はこの世から消えてなくなる……とかつて考
えられていたのは、占いと魔術によってこの
世は思い通りになるはずだ(そうならないの
は占いや魔術がまだ不完全なものだからだ)
という信念の裏返しに過ぎず、どちらもあり
得ない。

同様に
「運が良いとか悪いとか言っている暇があっ
たら手を動かして眼の前のことに取り組め」
という叱責がまったくもっともである現実と
「それでも運が良いときのウキウキした気分
と、運が悪いと思うときの重石を抱えたよう
な気分とが、何らかのサイクルで常に繰り返
されていること自体をどうすることも出来な
い!」
という実感とは常に媒介されてきたし、これ
からもずっと媒介されて行くだろう。

(了)

このあと註をひとつ載せてこの論考を終わり
ます。お読み下さった方々に感謝いたします。


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