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私を好きな人を嫌いという感情

これについては、まあいつか、書くんじゃないかなと思っていた。でもそれは先の話で、私の中で何らかの、覚悟が決まってからのことだと思っていた。じゃあ今それが決まったのかと問われたら、なんだろう、ちょっとよくわからない。でも「書かずに済ませて生きてく私」を、私は好きになれないなあと、思っちゃったので書き始めている。

私は、私を好き(そう)な人が嫌いだ。

それに気づいたのはわりと最近の話だ。人から「好き」を表明されるたび、この胸にむくむくとふくらむものに、ずっと長いこと名前がつかなかった。この人はいったい私の何を知っててそんなことをほざいておるのや。あなたが好きなのは私の想像図でしょうよ。なんで私がそれに合わせないといけんのよ??……

ああこの気持ちは「嫌悪感」なのだと、気づいた瞬間の納得感ったらなかった。これまで私はいわゆるレンアイカンケーとやらがうまくいったためしがない。誰でもいいから好いてくれる人とやっちゃいなさいよ、いいから一緒になっちゃいなさいよ! 主に年上の友人たちから、アドバイスめいたニュアンスでそう言われるたびに、むくむくとふくらむこの気持ちをなんて呼んだらいいのかずっとわからなくて、ただただ私は、えへへー、えへへへーー、と笑ってごまかしてきた。おかしいのは私のほうなのだと、ずっと、ずーーーっと思っていた。でも違った。ようやくわかった。

わかったのはごく最近のことではあるけれど、思い返せば子供の頃から私はそうだった。同性異性かかわらず、誰かにつきまとわれるのが嫌い。右か左か答えを待たれるのが嫌い。何でもかんでも同意されるのが嫌い。顔色をうかがわれるのが嫌い。ああ私はほんとうに、「どこに行くー?」「どこでもいいよー」「何食べるー?」「何でもいいよー」のやりとりが死ぬほど嫌い!

「好いてくれる人を好きになれないのは、自分自身を好きになれないからだ」的な言説も見かけた。もっと自分を愛してごらんよ、愛される自分を受け入れてごらんよ、それができないなんて自分がかわいそうだよー♪ そう言われて、ああ確かにそうなのかもなと思った。自分が自分を好きになれないでどうする? 的な自責を重ねたこともあった。でも、やめだ、やめ。おかしいのは、正すべきは、いつも私の方なのだと、自分をねじ曲げながら進むのは。

そう、私がこれを書いているのは、もうほんの一瞬でも、自分をねじ曲げたくないからだ。

「自分を好きな人が嫌い」。これを表明することをずっとためらっていた理由は簡単だ。そうすることで、孤立するのが怖かったからだ。せっかく好いてくれてる人を、拒絶するなんてバチが当たると、どこかで誰かに教えられたような気がしたからだ。でもさっきからいくら考えても、それがどこの誰だったのか思い出せない。親か? 教師か? 道徳の授業か? あるいはなにかの標語だっただろうか。

「愛情は、受け入れねばならない」。

……なんだその方程式。嫌悪感を笑って飲み込みながら愛される日々は果たして幸福か? 

やっとだ。やっと、自由を手に入れた。

この、きわめてひとりごとに近い文章が、誰かに響くとはあんまり考えづらいけれど、でもどこかでかつての私のように、おかしいのは自分のほうなのだと疑わず、孤立を恐れて、えへへー、えへへへーー、って笑っている誰かがいるなら、言いたいんである。

怖いのは、孤立することじゃない。
自分をねじ曲げるのに、慣れてしまうことだ。(2022/06/10)

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