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胞状奇胎日記【3】

 その3時間はほとんど永遠だった。術後3時間は絶対安静でいなければならないと説明を受けた時、麻酔の効果でそのくらいどうせ眠ってしまうのだろうと思い込んでいた。けれど実際その状況になってみると、胸と両腕両足に繋がれた管やらポンプのような機械が気になって眠ろうにも全然寝付けない。それに今しがた終わったばかりの初体験の興奮もまだまだ色濃く残っていた。指につけられた酸素濃度計はほとんど洗濯バサミで、もうずっと指が痛くて仕方がない。何かを考えようにも考え続けることも出来なくて、いつの間にかぼーっとした頭は無意識に「早く娘に会いたいな」というフレーズを唱えるのだった。 

 4月になって進級した娘は、お姉さんになったことに喜んでいた。3月は毎日のように嫌がって通っていた保育園も4月に入ると進んで自ら登園するようになった。「娘ちゃん、おねえさん!!」と自信に溢れた瞳を真っ直ぐこちらに向け淀みなく報告をしてくれる娘に、(お姉ちゃんにしてあげられなくてごめんね。)と勝手に申し訳なく思って勝手に胸が痛んでしまう。誰が悪いとかそういう話じゃないことは分かっていても、純粋に残念に思う気持ちはしこりのように固く残り続け、それは何故か罪悪感に形を変えて私の意識に表出してくるのであった。

 一体どのくらい時間が経ったろう。仰向けのままiPhoneに手を伸ばすも全く手が届かない。伸ばさなくとも届かないことが分かるくらいの場所にあるのに無意味に手を伸ばしてみる。少し腰を捻ってみる。何かに堰き止められていた血が、体制を変えたせいで一気に流れてしまったらしい。ドバッと吐き出された血はナプキンの吸収速度よりも速く拡散し背中に嫌な生温かさが登ってくる。ぐっしょりと湿ったその感覚は私にこれ以上体を動かすことを許さなかった。

𓃹

 初めて降りる3階は、まるで雪がやんだ直後の街のようにしんと黙っていた。エレベーターを降りると目の前にある外来窓口も人の気配は無く、締め切られた窓には1枚の案内がセロハンテープで留められていた。〈麻酔科は左手へ/レントゲン科は右手へ〉。ぱたん。ぱたん。歩くたびに自分の履いているスリッパの音が廊下中に響く。ぱたん。ぱたん。案内に沿って麻酔科を目指す。白い壁に囲まれた白い廊下を突き当たりまで行くと、

「小川さんですね?お待ちしてました。」

 とこれまた雪のように白い肌の医師が真横の部屋からぬっと顔を出し、柔らかな口調でそう言うとそのまま私を部屋に招き入れた。入室するときちんと整頓された彼のデスクが視界に現れ、見た目から想像されるキャラクター性を持っていることに安心した。デスクの端にちょこんと置かれた雪だるまのぬいぐるみを見つけた時、「自分で自分のことを雪属性だと自覚してるのか!?」と咄嗟に訝ったが、それはそれでなかなか良いなと思ったりした。

 今回の手術で私がいちばん気掛かりだったのは他でもなくこの全身麻酔にあった。いくら怖がったところでどうする事もできないとは分かっていながらもこの未知の体験に関するネガティブな妄想は意思とは無関係に膨らんでいった。Googleの検索窓に「全身麻酔」と打ち込む勇気は私には無く、入力した直後「全身麻酔 死亡」やら「全身麻酔 事故」なんかがサジェストされたらと妄想し怖がった。その一方で、この初体験に期待している自分もいて、膨らんでいくスリルを楽しんでもいた。気がつくと私の中で全身麻酔はスリリングなエンターテイメントという位置付けにあって、検索をしなかったのは単にネタバレを回避したかっただけだった。

「術後15分も経てばね、ぱちっと目、覚めますから。」

 麻酔科医の口から、ほとんど独り言のようなトーンで呟かれたそのひとことを私は見逃さなかった。さも当たり前の、誰もが知っている慣れ親しんだ常識を話すような口ぶりを見て、私の恐怖心は一気に萎んでしまった。恐いと噂のジェットコースターに乗る直前、アトラクションキャストに「全然恐くないですからね」と言われたようなガッカリ感。脱力しているうちに手術前の診察は終わっていて、私は丁寧に部屋の外まで見送られていた。

「それじゃあ後ほど、手術室でお待ちしています。」

 いや、もうそれキャストの言い方!キャストの自覚もあんのかよこの人。

𓃹

 雪見だいふくのような麻酔科医によって解体された私のスリルは手術時間の早まりによって急遽立て直され、エレベーターに乗り込んで、3階の、さっきとは反対側のドアが開くと、そこはもう手術室で、出迎えてくれた手術室看護師は当然のようにアトラクションキャストだった。診察室がある側の雪に覆われたような静けさは無く、静かながらも活気が漂うその部屋は映画やドラマでよく見かける青緑色に塗られ、同じ色の手術着に身を包んだ彼女達を前にすると、本当に、本当に手術をされるんだという実感が今更沸いてくるのだった。

 キャストは、私にヘアキャップを被せ手術台に寝かせると、手慣れていながらも責任感を湛えた正確な手付きで私の体に様々な管を取り付けてゆく。そうこうしていると雪見だいふくが部屋に入ってきた。さっき会ったばかりで、だけど初対面の看護師達に囲まれた今この状況では初対面では無いとうそんな些細な関係であるにもかかわらず、お互いよく知った間柄であるかのように私達は目線を交わす。あんただけが頼りなのよ、と目で縋る。

「こんにちは〜。じゃあ、よろしくお願いしますね〜」

 私の目線に込められた哀願に気づくはずもなく、呑気な調子でそう言うと私の口に人工呼吸器を取り付けた。途端に息がし辛くなり焦る。これ結構恐いかも。え、どうしよう。ジェットコースターが落ちる寸前まで上り詰めた時の、あの一瞬目下に広がる素晴らしい景色が脳裏に描かれると、はちきれんばかりのスリルに包まれた。

「じゃあ、ちょっとピリピリしますからね〜」

 と左の耳許で囁かれ、その後すぐに点滴の繋がれた左腕から指先や肩へとじんじん痺れが広がっていった。目をぎゅっと強く瞑って、いつ意識を失うんだろう、と急降下の瞬間を待ち構えて体を硬直させていると、トントントンと右肩を叩かれた。

「小川さん、終わりましたよ」

 えっ・・・???私としてはこれから意識を失うところで、急降下する直前で、内臓がふわって浮く感覚に身構えていたところで・・・。狐につままれたような感覚のまま私はベッドごと自室へ移動してゆく。初めての全身麻酔は一瞬にも満たないというか、一瞬も自覚しないまま終わった。タイムマシンに乗り込むことなく時空を飛び越え未来に来たかのようだった。一体どのくらい時間が経ったのか、それとも全然経ってないのか、全く検討がつかなかった。

 幸いにも術後の痛みはほとんど無く本当に手術をしたのか怪しんだ程だったが、わざとらしいくらいにガタガタと震える体が唯一手術が済んだ後なのだと教えてくれた。娘を産んだ時も、900ml近くの出血があった私の体は同じようにガタガタ震えていた。電気毛布に包まれながら、本物に限りなく近い偽物の妊娠生活が終わったことを噛み締めていた。

𓃹

 3時間の安静がやっと終わって夕食を取ると、やっぱりどうにも気持ち悪い。悪阻がまだ残っていた。胞状奇胎の場合、通常の流産時とは違い手術後に悪阻が残る可能性があるということはネットで調べてなんとなく知ってはいたけれど、それでも自分の身に実際に起こってみると落ち込んだ。病気についてもう十分自覚しているつもりでいたけれど、典型的な症状に自分が当てはまると、やっぱりその度にしっかり傷つくのだった。

 夕食が済むと消灯時間はすぐにやってきた。体は疲れているはずなのにどうにも寝付けない。まだ興奮が残っているのだろうか。麻酔はほとんど切れていて、今まで経験したことのない、膣を象るような痛みが出てきていた。それは私にどんな手術が行われたかを想像させる生々しい痛みだった。一向に眠気がやってこないまま夜はふけてゆき、後4時間もすれば血圧計と酸素濃度計を持った夜勤の看護師が「おはようございま〜す」と言ってカーテンを開けに来てしまう。寝なければ。寝られない。気分転換にトイレに立つと、廊下の先のつき当たりに灯りのついている部屋が見える。ガラス貼りの仕切りの向こう側にあるその部屋は、真っ暗な病院の中で唯一暖かな光を煌々と漏らしていた。私もかつて通ったその部屋は、授乳室だった。ちょうど真夜中のこのくらいの時間に、生まれたばかりの娘を小さなベッドに乗せて、それを手で押して通った。右も左も見えない暗闇の中で、あの部屋だけは安全地帯だった。きっと今も、あの部屋は誰かの安全地帯となっているのだろう。あの部屋でおっぱいのあげ方を学んで、うまく出来なくて悩んで、授乳の度に乳首はものすごく痛くて、緑色のうんちがついたお尻を拭いてあげて、お風呂に入れてあげて、柔らかいガーゼで顔を拭ってあげて、娘のおしっこの量が少なくて心配になって、ミルクを足しましょうって言われて、ミルクの作り方を学んで、それで・・・

 いつの間にか私はその場に佇んで泣いていた。私を支えてくれた授乳室が今は残酷な程遠い場所にあった。お腹に赤ちゃんはいませんと言われてから今日まで一度も泣いていなかった。悲しんでも仕方がないと悲しみを蔑ろにしたせいで、悲しみ方がわからなくなっていた。

 赤ちゃんに会いたかった。会いたかったよ。

 もう一度赤ちゃんを腕に抱いて、あの過酷で幸せな日々がやってくるんだと喜んだあの日。今度は娘がいるから力強いな、お姉ちゃんになったらなんて言うかな、きっと私が!私が!ってお世話したがるんだろうな、そんなことを想像していたことを思い出した。赤ちゃんは来てなかった。

 ベッドに戻ると余計に涙は出てきて、今度は赤ちゃんの娘がもう居ないように、今の娘もいつか居なくなってしまうんだと思ってその寂しさに泣いた。早く立てるようになるといいね、早くお話できるようになるといいねと成長を願い、ひとつずつ出来ることが増えるとその度に感動する一方で、ほんの少しだけ置いていかれたような寂しさをいつも感じてしまう。いつか出来ないことが何もない、なんでも自分でできてしまう日が必ず来る。きっとその日はあっという間にやってきて、その時もまた今みたいに通り過ぎた過去を思って泣くんだろう。泣いたって仕方ないのに。そんなことを思ったって涙は夜中枯れることはなかった。

  夜と朝のちょうど変わり目の暗闇が滲む頃、いつの間にかやっと、私は眠りに落ちた。


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