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しがみついた夜が朝で溶けてしまったとしても

 12月7日はやっぱり晴れなかった。尾崎世界観の日も、9月8日も空は重たい雲に覆われていて、私のクリープハイプの思い出は灰色い景色ばかりが溜まっていく。一日中待ってようやくアルバムがうちへ届いた頃東京は大雨で、街中を叩く雨の音はクリープハイプの日に東京ガーデンシアターで聞いた拍手の記憶と重なった。あの日、新しいアルバム「夜にしがみついて、朝で溶かして」が発表された時の長い長い拍手は喜びそのものだった。隣の女の子2人組は嬉しそうに肩を叩き合って喜んでいたし、私たちの切実な想いはステージにいる4人にもそのまま伝わった感覚があった。あれから3ヶ月。きっと長いと思っていた3ヶ月は思いの外あっという間で、アルバムリリースを取り上げた膨大なメディアを追いかけることで精一杯だった。これがアルバムを発売するということかと思い知らされつつ私は幸福な悲鳴を連日上げ続けたが、アルバムの発売日はある種のゴールでもあって、配達員がうちのインターフォンを鳴らした時、飛び上がるような嬉しさの隅でこのお祭りもそろそろ終わってしまうのかという微かな寂しさが確実にあった。のぞクリープハイプを覗く行為はもうすっかり日々の習慣として定着していた。
 ライナーノーツ企画が発表された時、絶対に書きたいと思う反面、すでに各メディアで楽曲解説はされているし、ライナーノーツに書いてあるような裏話が書けるわけでもない。書ける事と言ったら個人的な思い出と、さらにごく個人的なフェティシズムの話ばかり。でもきっと、ファンだから書けることもあるだろうと思う。そんな希望にしがみついて超私的ライナーノーツを書いてみたいと思う。


 アルバムをプレイヤーに吸い込ませると、独特なメロディのイントロが流れてくる。3年3ヶ月ぶりとなるアルバムは、尾崎さんの愛情ならぬ言葉遊びがたっぷりつまった料理という曲でスタートする。新しいクリープハイプとこのアルバムを象徴するような1曲目にぴったりの楽曲だと思う。側にいてくれたらそれで腹が膨れると思えるなら、まだまだこの2人は大丈夫だろうと思う。はじめから通しで聴くことの多い私にとって、アルバムの1曲目というのは季節や思い出にいちばん染まりやすい。私の料理はまだ何色にも染まってないけれど、これから季節がどんな風に染まっていくだろうと想像するだけでも楽しい。

 可愛らしいサビのメロディとポップな歌い方が魅力のポリコは、このメロディに乗せると「どうでもいいこと確かめ合って」「馬鹿は一つ覚えてまたすぐに忘れる」というかなり辛辣な謗りも刺抜きになっちゃう、そのギャップが大好きな曲。06しょうもなでも「言葉に追いつかれないスピードでほんとしょうもないただの音で」と歌うように、言葉はメロディに乗るとただの記号になってしまう。言葉がそのまま伝わってくれないもどかしさがしょうもなの出発点となったけれど、ポリコでは逆にその記号性を利用して言いづらい言葉をメロディに乗せる。風潮や世間体を理由に言葉を制限してしまう事は悲しい行為だと思う。言葉の揚げ足を取って攻撃することも、形だけの謝罪と撤回をすることもどうでも良すぎて悲しくなる。本当に私達が理解しなきゃいけないことは言葉の奥にあるはずなのに、常にその場凌ぎの言葉が見繕われて、終いには大きく論点がズレたまま忘れ去られてしまう。でも、この曲を聴いて深く理解し合う為にはこの馬鹿みたいなやりとりも必要な作業なのかもしれないとも思うようになった。この曲のように、こんなこと馬鹿だよって思う人が増えればきっと先に進むはずだから。目に見えないものを言葉にして相手に伝えるのは想像以上に難しく、何度もの失敗の往復を経て共通認識は作られていくのだろうと思う。
 結局、人は言葉をいくら積んでも体験を通さなければ本当に理解することはできないのかもしれない。体で理解することに言葉は敵わないし、言葉は本当に無力だなと思う瞬間がいくつもある。でもきっと、先に言葉という入れ物があったからこそ体が理解した時に「腑に落ちる」という言葉を使うのだろう。だから今分からなくてもいいから、言葉をたくさん交わし合って、言葉の容器を体に持っていたいなと思う。この曲の完成度の高さには惚れ惚れしてしまうのだけど、それ以上にやっぱり怒ってばかりの尾崎さんがいてくれることが嬉しい。尾崎さんの怒りには人を諦められないという愛情が常に含まれていると思う。

 「言葉にならないそんな感じ」を言葉にするのが得意な尾崎さんが、言葉にならないとそのまま言い切ってしまうところが新鮮な二人の間。びよんびよんした音が不思議と耳に心地良い。クリープハイプにも愛せる間がいくつもあるが、尾崎さんがカオナシさんに向かってふざけたことを言った後、カオナシさんが(ごめんなさいちょっと分からないですね)という反応をした時にだけ流れるあの二人の間が私の一番のお気に入り。(尾崎さんも振られるの覚悟で突っ込んでるんだろうなってところがミソ)

 クリープハイプ版枕草子と言える四季がリリースされたのは2021年の4月のことで、5月に行われた「尾崎世界観の日」という引き語りツアーで歌を聴いた。「何かに許されたり、何かを許したりしてそうやって見つけてきた正解」と歌ってくれた時、自分でも驚くくらい泣いてしまった。コロナがまだまだ落ち着かない中でライブに参加した自分をどこかで責めていた。こうやって書くと自分の都合の良いようにと思われてしまうかもしれないけれど、その時は本当に何かに許された気がして、まるで重りが下りたかように体が軽くなったことを覚えている。
 売春や春画など「春」という漢字は性的な意味の言葉によく使われるが、発情期を迎えた猫を表す「猫の恋」は春の季語だし、桜に始まり様々な花が咲き乱れるのを見るとそれも頷ける。まるで人の体温を思わせる生ぬるい春風も相まって、やっぱり春はエロいと思う。
 季節がまた巡ってきたときに感じる懐かしさを「忘れてたら、忘れてた分だけ思い出せるのが好き」とポジティブに表現するところが好きだ。実際には皮肉が込められているのかもしれないけれど、楽曲全体の平和な雰囲気も相まって上機嫌な尾崎さんを感じられる貴重なフレーズ。いつでも優しいと歌う彼らの夏の思い出に、フェスのステージ上から見える私たちの姿があったら嬉しいなと思う。
 12月に入って寒い日が続くけれど、夜の帰り道に冬の部分を口ずさむとこの寒さも特別なものに思えてくる。この曲がリリースされてから季節が一巡したのだなとしみじみ思い、今まで見てきた景色や感情がクリープハイプの言葉で切り取られる度に、それらが私とクリープハイプの思い出に変わって積み重なっていくことが嬉しい。街の光揺れる目の中、潤んだ目で見るこの景色が好きなのは私だけだと思っていたのに、こんな風に歌われたらもう堪らないのだ。

 AC部のMVが強烈すぎる愛す。この曲を聴くと勝手に脳内でベイビーメイビーが再生されて全然曲に集中できないのはきっと私だけじゃないはず。2020年代になって「嫌われる勇気」のベストセラーを経て「もう大人なんだから自分の機嫌は自分で取りましょう」というようなムーブがあって、素直になれなかったり、不機嫌を相手に押し付けたりするのはもう時代遅れだと認識されるようになりつつあるけれど、この曲で歌うような2人の関係性が近すぎるが故に甘えてしまって素直になれないもどかしさはどれだけ時代が変わろうと人間が成長していく上で必ず経験されるような本能的な感覚だと思う。しかしながら、良くない男だと分かっていながらもこんな風にごめんねなんて言われたら別れられないかもしれない。情けない男を放っておけない自分もまた情けない。この曲では男女の関係を歌っているけれど、子と親という家族関係に置き換えても共感されるような感情なのではないかと思う。
 クリープハイプの楽曲は10年前から聴いていたけれど、ファンクラブに入ろうと思ったきっかけは愛すとキケンナアソビを聴いてだった。曲の雰囲気をここまで変えた上でこの精度の曲が出せるのは積み重ねてきたものがあったからに他ならないし、この曲を聴いた時、その時間に感動してもっとこのバンドを近くで見ていたいと思った。

 もう結構ストレートに怒っていて聴くと心がスカッとするしょうもな。ポリコの部分でも少し触れたようにメロディに乗った言葉たちは、分解され、意味を失ったただの音になってしまう。それなのにインパクトの強い言葉を使った途端、世間はその言葉の首根っこを掴んで文句を言う。そんな世間の中にいるお前へのラブレター。ことばのおべんきょう、しましょうねって。それにしても、批判したら曲のプレゼントが貰えるだなんて、羨ましいにもほどがある。

 どこにも行けないあたしのことはアルバムの7曲目位で歌われる位がちょうどいいの7曲目は一生に一度愛してるよ。こんな曲を歌われてしまったらもうちょっと本当にどこにも行けない。(私にもプレゼントあったよー!)
 クリープハイプの魅力は星の数よりあるけれど、そのどれもが誠実さに集約されると思う。エロや怒りは物凄く目立つからその影に隠れてしまうことがもどかしいけれど、こちらが追いかけていたはずなのに、気がついたら抱えきれないほどのギフトを受け取っていたというような状況が度々発生する。その誠実さの根底にはお客さんに離れて欲しくない、がっかりされたくないという怖さがあるのだろうけれど、その泥臭さがバンドの重力となって、10年経った今でもこうしてファンと同じ高さで視線が交わり続けているのだろうと思う。
 体調を崩してライブをキャンセルしなければならなくなった時、その日を楽しみに待っていてくれていたファンを想って、「喜んでもらえるように頑張ってきたはずなのにどうしてこんなことになっちゃったんだろう」と思わず号泣してしまったというエピソードを聞いて、そのどこまでも透明な健気さが嬉しかったし、こちらもその気持ちにちゃんと応えたいと改めて強く思った。自分の柔らかい部分を人に曝け出しながらコミュニケーションを取ろうとする姿にいつもいつもいつも惹かれてしまう。自分の内臓を晒し、また相手の内臓をも指で直接なぞるかのように人の感情を読み取る事ができてしまう尾崎さんは、それができてしまう事によって傷つくことも多いのだろうと思う。クリープハイプのお客さんは真面目だとよく言うけれど、それは、先頭に立つ尾崎世界観という人間が一番真面目で一番正直だからに他ならない。追いかけたら追いかけた分だけちゃんと幸せにしてくれるバンド、それがクリープハイプだと思う。

 スライムみたいにメロディが自由自在に変わるニガツノナミダ。疾走感溢れる冒頭30秒に続いてキレキレのギターソロが終わると気怠いドラムが鳴ってガラッと雰囲気が変わる。その中で「30秒真面目に生きたから残りの余生は楽しみたいなら」と歌う。音楽をお手玉のようにして遊びながらもきっちり決めてくるところが最高にかっこいい。

 ナイトオンザプラネットをクリープハイプの日(仮)でこの曲を初めて聴いた時、彼らはもう少し遠いところに行ってしまうんだろうという予感があった。それはバンドが今以上に売れるかもしれないという嬉しい予感のはずだったが、咄嗟に思ったのは売れてしまうかも、だった。ファンが増えれば、今でこそ取れないチケットがもっと取れなくなってしまうし、ラジオでメールが読まれる確率も、もっと言えばTwitterのエゴサーチで引っかかる確率だって、今よりもっと低くなってしまう。バンドが大きくなるタイミングはもう何度も経験してきたはずなのに、未だに手放して喜べない自分の未熟さが本当に嫌になる。それなのに、どういう訳かこの曲はこの寂しさをどこか肯定してくれるような不思議な雰囲気があった。

夜にしがみついて 朝で溶かして
何かを引きずって それも忘れて
だけどまだ苦くて すごく苦くて
結局こうやって何か待ってる


 何度聴いても拭えない寂しさはいつしか夜明け前の暗闇と重なって曲にこびりついてしまっている。あの日、ミラーボールが回る会場で群青のライトに照らされた4人の姿を私はきっと忘れないと思う。

 2歳の娘とお風呂に入りながらこのアルバムをかけると、「これ何の曲!?」と必ず反応されるのがしらす。カオナシさんの曲はアルバムが出る時の楽しみのひとつで毎回素敵なことに変わりはないけれど、今回のやりたい放題はもう素敵を超えて有難い。頭とお尻を振りながら楽しそうに聴く娘の姿を眺めながら私の人生において大切な曲になるのだろうと感慨にふける。終盤の「旅の終わりに謝りに行こう」で命の対等さを体が一気に自覚する。捕食するされるは自然界の摂理であるが、だからといってされる側の命がする側の命より軽んじられて良いはずは無い。どこまで感情移入し、どこで割り切るかは答えの出ない問いのひとつであるが、そう悩んでしまうのは自分が被食者になり得る可能性が殆ど無いからなのだろう。だからこそ、意識して考え続ける責任があると思うし、自分の子どもにもこの曲と共にそれを伝えたいと思う。
 しかしその一方で、まるで楽器かのように鳴る尾崎さんの声が私のフェティシズムを刺激してならない。私がクリープハイプを聴くようになったきっかけは声だと言い切れるが、破れる寸前まで引き伸ばされたビニールのような尾崎世界観のあのハイトーンにはある種の性的な魅力を感じてならない。破れないところがたまらなくて、ビニールだって破ってしまったら興味は中身へと移るわけで、誰しも破れる寸前が一番ビニールの事を考えている。尾崎さんの声にはそういう吸引力が確実にある。さらに細かいことを言えば、ギターの弦を引っ掻いた時にでるような音で歌うあの少し捲れた発声も頭を抱えてしまうほど好み(例:料理の冒頭「味覚を馬鹿にして笑う」のらのお尻。)で、尾崎さんの声帯が楽器屋さんに置いてあれば即座に購入し自分の喉に付け替えたいとさえ思う。

 サイケデリックな雰囲気のなんか出てきちゃってるはライブで聴ける日が待ち遠しい曲であるのはもちろんのこと、この先のクリープハイプの可能性が垣間見れた展望台のような曲に感じた。

 人の悲しみはどうしてこんなに美しいのだろうと思うことがある。キケンナアソビの悲しみは限りなく痛く、また美しい。「やっぱり終わってるから何してももう意味ないな」の「意味ないな」を「意味ないね」ではなく「な」で終わらせることによってその想いが彼女ひとりのものであることを再度突きつけられ、答えが出ているのに関係を結ぶたびに同じ強度で落胆する彼女に胸が張り裂けそうになる。また、どうせ私は遊び相手なんだからという自虐と諦め、更に自分自身とこの関係に対する戒告を夕方のチャイムで表現する所は素晴らしすぎてその才能に嫉妬してしまう。
 クリープハイプにとって、エロや行為そのものはあくまでも付属物にすぎず、本当に描きたいのはそのような関係を持つ2人の人間の間に起こるドラマや諦念や後悔なのだろうと思う。行為によって繋がった人間の間には、積極的に言葉にされない感情が山のように積もっていて、それを尾崎さんが言葉に変えた。そう考えると、クリープハイプがエロを歌うことは必然だったのかもしれない。

 ボーイズENDガールズの続編となるモノマネもキケンナアソビに負けず劣らず痛く、恋人間の心のすれ違いを似ていないモノマネで描く。弾き語りのボーイズENDガールズを聴きながら「シャンプーの匂いが消えないうちに早く会いに」と歌詞通りに走って好きな人に会いに行ったあの頃と「シャンプーの泡頭に乗せてふざけるから」を聴いている今とで自分の人生の長さをつい計ってしまう。キケンナアソビでは自分の体にうつった相手の匂いで叶わないと分かりながらも恋心が募ってしまうやるせなさを描いたが、モノマネでは「おんなじ匂い 嬉しくなって」と続く。匂いでリンクした2人の女の子の感情が立体的に浮き上がってきて嬉しさがより強調されているように感じる。しかしその直後に「でも」と続き途端に暗雲が立ち込める。「似ている」を見つけると嬉しいけれど、それが幾つも見つかってしまうと今度は「似てない」が許せなくなってしまう。本来は「似てない」ところの方がずっと多いはずなのに。共感できないからと言って作品を蔑む行為にも通ずるところがあるかもしれない。広く共感される作品の方が日の目を見る可能性は高いだろうけれど、それらは個人の心の奥底を刺し人生を救済するような作品にはなり得ないだろう。「違う気持ちを許す幸せ」と歌うように、未知の世界に出会った時に感じる幸福を私はこの曲から教わった。

 10年前、私は別のバンドを追いかけてライブにもよく通っていた。その時に知り合った男の子がいて、彼は尾崎さんに雰囲気がよく似ていた。彼自身も尾崎世界観に似ていると言われることが嬉しかったようで、会うたびにそれを指摘するとキツネのように目を細めて照れて笑っていた。そのうち生活が変わってそのバンドを追いかけるのをやめてしまって、その子にも会わなくなった。クリープハイプのMVを見ているとやっぱり彼に似ている瞬間がいくつもあって、SNSに久しぶりにログインして「〇〇くん元気にしてるかな?」と呟いた。しばらくして共通の知り合いからダイレクトメッセージが届き、彼が事故で亡くなっていたことを知った。幽霊失格のMVがリリースされたのはその夜だった。連絡は全然取っていなかったけれど、会って、やっぱり似てるねと言えば、きっとまた照れて笑ってくれると思っていた。MVの中の尾崎さんは当たり前のようにその子に似ていて、いつまでも涙が止まらなかった。あっという間にこの曲は君のものになってしまったよ。君は本当に幽霊失格なんだから。

 茜色に染まった空に瞬く星のようなシンセと、流れ星のようなピアノが綺麗なアルバムの最終曲、こんなに悲しいのに腹が鳴るは、夕暮れが夜に溶けていくように終わっていく。夕方5時の鐘に感じる寂しさがそのまま曲になったような哀愁がある。どんなに悲しくても感情とは無関係に鳴る腹の音は、その間抜けさに苛立つ一方で、ご飯を食べたいと思えるということはまだ自分は大丈夫なんだと勇気づけられもする。「生きたい生きたい死ぬほど生きたい」と歌う声を聴いていると矛盾した言葉の滑稽さに自然と口元が緩み、「またそんなこと言って」と呆れながらも不思議と明日も頑張ろうと目線が上がる。
 螺旋を描くようにして「食欲」へとテーマが回帰していくこのアルバムは、まるでプロローグとエピローグに挟まれた壮大な物語を思わせる。「食欲」も「性欲」も生理的欲求として同等のものであり、その中でも食事は性行為に次いで官能的な行為だと思う。そう考えるとこのアルバムはやっぱりクリープハイプらしい、彼らにしか作れないアルバムだと改めて感じた。


 「ことばのおべんきょう」と題された歌詞解説企画の中で、尾崎世界観にとって「エモい」とは何かという質問を受けた尾崎さんが「僕はエモいって思った事はないですね」と答えたのを見た時、「あぁもう大丈夫だ」という感覚が腹に落ちた。世界観という名前になる前から変わらずあるような彼の真ん中が一瞬、目の前に現れたような気がして、バンドがどれだけ売れても、鳴らす音楽が変わっても、クリープハイプはクリープハイプでしかいられないのだという当たり前を改めて実感して安堵した。今は、この先彼らはどんな景色を見せてくれるのだろうと楽しみで仕方がないし、このアルバムがより多くの人々の人生の句点になってくれたら嬉しいと思う。改めて、アルバム発売(とこの素晴らしい企画を!)ありがとうクリープハイプ。

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