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小黒恵子(詩人・童謡作家)について

 こんにちは。小黒恵子童謡記念館です。
 本日は、詩人・童謡作家である「小黒恵子」さんの生涯についてご紹介します。

小黒氏

「詩」に出会うまで


 小黒恵子は、1928(昭和3)年8月に、多摩川のほとりの川崎市高津区諏訪(当時は高津町・現在の小黒恵子童謡記念館がある場所)で生まれ、生涯をここで過ごしました。
 一人娘であったため、「家を守るためには法律を学ばなければ」という母親の希望で、中央大学法学部へ進みました。

 しかし、卒業した頃は戦後の混乱が続いていて、就職した会社も倒産するなど、なかなか活躍の場を見つけることができませんでした。
 その後「赤いくつ」という喫茶店で、赤いハイヒールを履いてウェイトレスのお仕事に就いたが、このハイヒールに馴染めず…このお仕事も断念。

 困難な時期が続き中、渋谷で喫茶店「ラ・セーヌ」を経営することになり、ここから人生が変わります。学生や文化人、マスコミ関係者などと交流が始まります。 そして、そこで画家の谷内六郎氏との出会いがありました。

 当時、「週刊新潮」の表紙画を描いていた谷内氏は、発行前の原画を持参しては見せていました。ある時、谷内氏は、原画の感想を求めたのです。詩情あふれる谷内氏の童画に寄せて、その感動を詩にして伝えました。このことがきっかけになって、童謡を書き始めることになります。

詩人としての活躍

 
 その詩を読んだ谷内氏の勧めもあり、当時33歳だった小黒恵子は、1961(昭和36)年から1967(昭和42)年にかけて詩人サトウハチロー氏に師事し、詩の道を進み始めました。
 (※4月18日追記:昭和38年から師事、と記載されているインタビュー記事もあります。どちらが正確かは、まだ判明していません。) 

 1970(昭和45)年に谷内六郎装幀で「シツレイシマス」を出版しました。この童謡集「シツレイシマス」には、処女作となる「もう かえって来ないんだね -今は亡き愛犬ロンに捧げるうた」が含まれています。植物や動物、昆虫、小さな爬虫類や小鳥など、身近にいる実に様々な生き物たちを、愛情いっぱいにとらえ、斬新でユニークな作品は、童謡の世界に新しい風を吹き込んだのです。

 詩集、童謡曲集などを出版し、さらにアフリカの取材旅行の体験で作られた「飛べしま馬」「ライオンの子守歌」の2冊に収められた14曲の組曲は、1982(昭和57)年の「日本童謡賞」に輝きました。「飛べしま馬」は、サバンナを駆け回るシマウマの群れに感動した後に、皮をはがされた多くのシマウマの死体や積み上げられて売られている毛皮に衝撃を受けたことがきっかけでした。このアフリカでの体験は、世界自然保護基金チャリティーコンサートなどの自然保護活動のきっかけとなりました。

 草花や動物、昆虫などをテーマに生涯で800曲以上の作品を発表、NHK「みんなのうた」「おかあさんといっしょ」の番組では、「ドラキュラのうた」「モンキーパズル」「ジャガイモジャガー」「シンデレラのスープ」「ニャニュニョのてんきよほう」など、数多くのヒット曲を生み出しました。

社会貢献


 1983(昭和58)年から日本童謡協会理事、1995(平成7)年から日本童謡賞の審査員を務めるなど、童謡普及啓発にも取り組みました。また、児童合唱団の運営への支援と芝らしい音楽活動を称えるために、「花とライオン児童合唱音楽賞」を1996(平成8)年に設立し、2016(平成16)年には、川崎市制80周年の川崎市歌一部改訂にも協力しました。

 小黒恵子の童謡、動物愛護、自然保護など他方面にわたる貢献が評価され、1990(平成2)年に川崎市文化賞を受賞、2001(平成13)年に勲四等瑞宝章を受章しました。

 1991(平成3)年には、ご自宅を改築し「小黒恵子童謡記念館」を設立しました。設立時から「自分がこの世からいなくなった時には、川崎市に記念館(庭を含めて)を遺贈したい」という思いがありました。翌1992(平成4)年に出演されたテレビ番組で、自身(当時64歳)でこの気持ちを語られているビデオが記念館に残っています。(画像が悪いが、記念館にて視聴可能)
 2014(平成26)年4月1日に死去。享年85歳。

明日は、小黒恵子童謡記念館をご案内します。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。(S)

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