いつか 秘術は解けるから

 志那子はかれこれ三十年以上、変わらず穏やかにほほえみ続けている。

 りん、とちいさく風鈴の音がして、ああそう言えばしばらく軒先に吊るしたままだった、と思い出す。片付けなければ片付けなければとそのままに、つい日が経ってしまった。朝の日課を済ませて立ち上がると足許にイツコが擦り寄ってきた。やって来たときにはまだまだ溌剌としたお嬢さんだったイツコも、今やすっかりおばあさんといった風情だ。朝夕の食事時にはこうして擦り寄ってはくるが、あとはたいてい、のんびりと横になっている。名を呼べば面倒そうに僕の顔を見ることもあるが、無視されることが多い。顔の周りの斑模様に白い毛が増え、猫にも白髪があるのかと驚いてから、早数年が経ったはずだ。

 昼はうどんにした。寒い時期になると志那子のあんかけうどんが恋しくなる。教わった方法を試したことはあるが、志那子のあんかけうどんとは似ても似つかないものとなり、それきり作るのを諦めた。お茶を飲みながら少し古い映画をストリーミングサービスで楽しんでいると、玄関から「おとうさーん、来たよー」と百合の声がした。百合の声を追いかける「じぃじー、きたよー」は、皐月の声。とたとた、と軽やかな足音とともに皐月がリビングにひょこっと顔を出した。
「じぃじ!」
「よく来たねえ。寒かったろ、お入り」
 炬燵布団を捲り上げて隣に皐月を招き入れた。皐月は隣で「ふぅ」と大人びたため息を漏らす。皐月にばれないように小さく笑った。ストリーミング再生を止めて皐月の好きな動画に変えた。続けて姿を見せた百合のお腹はますます大きくなり、動くのも大変そうだ。
「悪かったね、大変なときに」 
 百合は首を振る。
「ぜんぜん」
 巽さんも夕方には来るから、そう言って百合は志那子に歩み寄った。手に持った紙袋は近所のケーキ屋のもので、志那子の好物のパウンドケーキが入っているはずだ。百合は里帰りの度、同じケーキを買ってくる。百合にとってもよほど思い入れのあるケーキなのだろう。炬燵に入った百合と入れ替わりに立ち上がってお茶を煎れる。皐月の分には、少し行儀が悪いけれど氷を一欠片落とし込んだ。リビングからは賑やかな笑い声が聞こえて、イツコの姿は見当たらない。炬燵の魅力と皐月への警戒を天秤にかけて、やはり警戒を取ったようだ。皐月はもう数えきれないくらいここに来ているが、イツコは未だに皐月に慣れることはできないようだ。普段僕とふたりだから、それも仕方がないのかもしれない。イツコも随分、おばあさんだから。

 夕方には百合の夫である巽君が、それを追いかけるように蘭が蝶子と夫である靖晃君と姿を見せた。蘭は見慣れない紙袋を手にしていて、何かと問うとパウンドケーキだと答えた。
「うっそ。おねえちゃんも?」 
 百合に蘭が言葉を返す。
「百合もそうすると思ったから、違うお店のにしたんでしょうが」
 僕とイツコで使うには大きすぎる炬燵も、大人が五人とおちびさんたちふたりにはかなり狭い。夕飯は先に到着した百合の体調を慮って出前の寿司にしておいた。家族が揃ってこうして賑やかに食事をするのは何年ぶりだろう。寿司を食べ終えて靖晃君に風呂を勧めたら、そのまま彼は蘭に声をかけた。
「お風呂、どうする?」
「百合からでいいんじゃない?」
「悪いよ」
「いや、百合が先に済ませた方がいいだろう」
「じゃ、俺は最後で」
 あっという間に風呂の順番が決まって、百合が風呂に行っている間、巽君と靖晃君が並んでキッチンに立った。昨今の夫は、妻と同じように家事をするものだと聞いてはいたけれど、足元に纏わりつくおちびさんふたりの相手をしつつてきぱきと洗い物を片付けるふたりは見事だと関心した。百合の次に風呂に入って上がってくると、蝶子と皐月が駆け寄ってきた。
「じぃじ、ケーキたべたい!」
「ケーキ!」
 巽君は穏やかに微笑んではいるが困っているし、ちらっと見たその目はきっぱりと「ダメだ」と言っていた。父親がダメと言うものを、僕がいいと言えるわけがない。じぃじに聞けと誘導したのはおそらく蘭だろうと予想はついた。蘭の思惑どおり、ここはひとつ僕が悪者になるとしよう。静かに首を振ると蝶子も皐月も明らかにがっくりとうなだれた。解ったでしょ、明日ね。蘭が笑いながら言って、やはりそうだったかと思って見れば、蘭は小さく舌を出して見せた。こういうところは幼い頃からちっとも変わっていない。
「そういえばイツコ見ないけど元気なの?」
「元気だよ。歳は取ったけど」
 蘭の質問に答えると懐かしそうな表情で百合が呟いた。
「そういえばうちって昔から、猫だけはいっつも、いるよね?」
「お母さんが好きだったからかな。きっとNNNで話題なのよ」
「NNN?」
 蘭がにやっとした。
「にゃんにゃんネットワーク。猫にやさしい家の情報は猫たちの間で共有されてるんですって」
 そう聞くとなるほどそうかと思ってしまう。志那子がずっと飼っていた一郎太を看取ったあと、若い野良猫がふらりとやってきてそのまま居着いてしまったので、次郎寿と名づけ飼うことにしたのだった。以降、ミツコ、四谷と続き、イツコは我が家の五代目の飼い猫だ。 
 おやすみなさいを交わして自室に下がる。リビングではまだ、小さくニュースの音声が流れている。百合はこれから蘭を相手に機関銃のように喋り倒すのだろう。身体に触らないといいが。

 いつもどおりとは違う朝。蘭と靖晃君が朝食の準備をしている間、いつもより少し遅くなったが日課を済ませた。昨日は皐月の好きな動画だったが、今日は蝶子の好きな動画が流れ続けていた。朝食を終え新聞を広げる。動画に飽きたのか蝶子は、皐月を供に引き連れて二階に探検に繰り出した。巽君が淹れてくれたコーヒーを飲み、百合が動画を止めた。階上からふたりぶんとは思えない賑やかな足音がして、巽君が申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめんなさい、うるさくて」
「たまのことだから気にしないよ。元気で何より」
 約束の時間が迫って僧侶が訪ねてきた。淡々と志那子の前に集まる。命日の法要を終わらせ、お経を上げてもらったお礼と手土産のパウンドケーキを僧侶に持たせた。僧侶は何度も頭を下げて帰っていった。また家族だけになって、今度こそみんなでパウンドケーキを食べた。蘭と百合、二人が持ち込んだパウンドケーキの食べ比べという贅沢だ。飲み物は、最近巽君が気に入っているという紅茶。百合とおちびさんたちはミルクだ。穏やかにゆったりと、それでも確実に時間は過ぎてゆく。まず遠方に住む蘭たちが、そして続けて百合たちが帰っていった。蘭と百合が持ち込んだパウンドケーキは、一切れずつを残して、あとはお土産として持たせた。ひとりきりになるとイツコが擦り寄ってきて、昨夜も今朝もイツコはどこかに身を潜めていたことを思い出した。さぞ腹が減ったろうとすぐにイツコにもごはんをあげた。後で労いの意味も込めてちゅーるもあげることにしよう。
 ひとり静かな夕飯を終え風呂に入る。自室に下がる前にちゅーるをしまってある棚に歩み寄ったら、それだけでイツコは察したようでいつもより大きな声で鳴きながらまとわりついてきた。封を切って差し出せば目を細めて夢中でちゅーるを舐め取った。すっかり満足したらしいイツコの頭を撫でて、夜の日課を済ませると自室に下がった。ベッドに入るとすぐに眠気に誘われた。自覚はなかったが相当疲れていたようだ。とろとろと微睡んでいると目の前にあの日の青空が見えた。これは夢だと自覚しながら見る夢は、映画を観ているような気持ちがする。

*   *   *

 志那子は背を起こしたベッドにゆったりと凭れたままで僕を見て微笑んでいる。
「あなたを選んで、本当によかった。私、とても幸せだった」
 もう過去形で語るのか。
「話したかな。私、実は、魔女の末裔だって」
「うん。懇親会で話してたよね。覚えてる。可愛いのに変な女って思ったから」
 初めて志那子と顔を合わせたのは会社の懇親会だった。自己紹介の場で、志那子は、自分は魔女の末裔だと言った。だからどうということでもなく、たとえばどうしてもしいたけが食べられないとか、雨上がりの空の色が好きだとか、そういうものの一環として自然にさらっと魔女の末裔だと言ったのだ。だからかえってどう反応したらいいのか解らず、誰もそれについては触れたことはなかったように思う。部署は違うのにその後もちょいちょい社内で顔を合わせる機会があって、僕は次第に志那子と親しくなり、出会って一年八か月後には恋人として交際を始めた。志那子はとても良い子で、きっとこの先志那子以上の女の子には出会えないだろうと確信した僕は、かなり早いタイミングで志那子との結婚を考えていることを告げた。志那子も同じ気持ちだと知って、その先はとんとんと話が進んだ。中古のリノベーション物件を買ったのは一郎太と一緒に住むためだ。結婚して二年後には蘭を授かりさらに二年後には百合も生まれた。その間、我が家の飼い猫は二郎寿になっていた。
 まるで幸せを絵に書いたような、という比喩表現があるけれど、まさしくそんな日々だった。蘭も百合もかわいいし、志那子は妻としても母としても完璧だった──僕にとっては。もちろん、喧嘩や行き違いもあったけど、それは相手が志那子であろうとなかろうと同じだったはずで、だから僕は志那子にはほとんど不満を抱くことはなかった。この幸せは長く続くと信じていた。
 でも、その幸せは長くは続かなかった。志那子が病に──しかも、いのちに関わる病に倒れたのだった。僕は志那子につきっきりで、その間、蘭と百合は僕の両親に預けた。志那子が病室でどんどん弱っていくのは辛かったけれど、そばにいられないのはもっと辛かった。時折母が蘭と百合を連れて来てくれて、志那子は一生懸命にふたりに話しかけるのだけど、ふたりの口数は少なかった。幼いなりに、ふたりはきっと感じていたのだろう。志那子のいのちが長くはないということを。志那子が魔女の秘術について話し始めたのは、もういよいよだめかもしれない、という時だった。
「私、あなたに秘術を施したの。魔女の秘術」
 秘術? 問い返すと志那子は、まるで幼い子どものように、うん、と頷いた。
「意中のひとのこころを手に入れる秘術」
 志那子はそこで言葉を止めて、そうっと静かに瞳を閉じた。そのまま息を引き取ってしまうのかとはらはらしはじめたところで、小刻みにまぶたが震えてそうっと瞳が開いた。
「その秘術を完成させるために、私、寿命の半分を差し出したの」
 寿命の、半分? 志那子は目だけで頷いた。
「どうしても欲しかった。あなたのこころが」
 志那子は再び瞳を閉じた。なにも言えずに黙り込む。ようやく出たのはこんな言葉だ。
「どうして、そんな、」
「長生きよりも、あなたのこころがほしかったから。秘術を施したこと、後悔してないよ」
 そうして志那子は微笑んだ。それはとても美しくて、今まさに志那子のいのちが最期の煌めきを放っているのだと悟った。そこまで僕を一途に想ってくれていたなんて。もしも志那子が秘術を施さなければ、僕はどうしていたんだろう。今のこの、志那子に抱いている僕の深い愛情は、本来の感情ではなくて、秘術を施されたせいなのか。なんだよなにが起こっているんだ。意味が解らない。混乱し始めた僕を現実に戻したのは、淡々とした志那子のことばだった。
「大丈夫だよ。この秘術は、術者が死ねば解けるから」
 真っ直ぐに志那子を見た僕を、志那子もまた真っ直ぐに見ていた。
「もうすぐ私は死ぬ。そうしたら秘術も解けて、きっとあなたは他の誰かと恋をする。だから、大丈夫。約束、して? 私の分も、うんと幸せになるって」
 志那子がいないのにどうやって幸せになれと言うんだろう。反射的に首を振っていた。志那子がちいさく、笑った。
「困った人。心配で死ねないじゃない」
 そうだよ、このまま生きていてくれたらいいんだ。志那子の手を取った。強く握ると握り返してくれて、でもそれはもう弱々しくて、志那子が死から逃れる術はないのだと思い知った。志那子が静かに目を閉じた。直後に近くに置かれた機械がけたたましい警報音を鳴らし始める。ばたばたと看護師が、続いて医師が病室に飛び込んできて、彼らは懸命に処置を続けてくれたけれど、志那子が瞳を開いて微笑んでくれることは、もう、二度となかった。

 薄い煙が、目に沁みるほどの青い空に溶け込んでいくのを黙って見上げていた。右手に蘭の、左手に百合の手を握ったままで。僕は何も言えず、蘭も百合も何も言わない。不思議と涙も出なかった。
 魔女の秘術は、術者が死ねば解けると志那子は言った。ならとっくに秘術は解けていても不思議ではないのに、僕はまだこんなにも、志那子のことを愛している。もしかしたら志那子は、まだ生きているんじゃないのか? そんなことをつらつらと考えていた。
「ぱぱ」
 百合が呼んだ。しゃがみこんで百合の目を見た。
「いつか、また、ままに会える?」
 胸が詰まって言葉が出ない。
「会えるよ。会えるに決まってる」
 僕の代わりに蘭が返事をしてくれた。百合がうん、と頷いた。

*   *   *

 足元に重みを感じた。イツコか。瞼を開けるとカーテンの隙間からほんのりと夜明けを感じた。布団を引っ張り寝返りを打つ。それに合わせてイツコが移動する。笑いが漏れた。でもその直後に、胸の真ん中あたりからじわじわじんわりと、虚しさが広がるような気がした。
 長い、長い夢だった。
 志那子の話は結局、何がほんとうだったのだろう。術者が死んだら解ける秘術なんて、とてもほんとうとは思えない。実際に今も僕は志那子を愛しているのだから。そうすると、やはり、志那子の話は嘘だったのか。嘘だったならいい。この愛が本物だと信じることができる。志那子があんなことを言ったのは、まだ十歳だった蘭と七歳だった百合のことも考えて、僕に再婚を促す意味もあったんだろうか。もう少し眠りたいのに、どうしても寝付くことができなかった。起きてしまってもよかったのだけど、足元のイツコが哀れに思えて起きることもできなかった。結局、いつもの時間になるまで仕方なく、そのままベッドで横になっていた。

 朝の日課。
 仏壇の志那子の写真に向かって、水を供えながらとりとめなくしゃべる。中古でいいから家を買おうと決めた時、そういえば志那子はできれば仏間がほしいのだと言ったことを不意に思い出した。そのときは、すでに鬼籍に入ってしまった志那子の両親のためなんだろうと考えたけれど、志那子自身が死んだあとのことを考えたのかもしれない。
「ねえ志那子。考えても考えても、結局僕には、なんにも解らないまんまだよ。もしかしたら志那子のたましいは、まだ、僕の近くで生きているんじゃない? だから、秘術が解けてないとか? そうだったら僕は嬉しいよ。志那子がそばにいるってことだもんねえ」
 りん、とちいさく風鈴の音がする。

 志那子は変わらず、穏やかにほほえみ続けていた。

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