ここにある真実

 深流(みる)は大きな窓辺に座って、ぼんやりと外を眺めていた。
 いつか、ここから誰かが助け出してくれる、そう信じていられたのも、うんと幼いころだった。
 十五歳になった今では、もうそんな空想に耽っていられるほど、子どもではいられなかった。あと半年もすればここを出て、次には身障者用の施設に入所することになるだろう。
「深流」
 呼ばれて、深流は振り返る。はっきりとは見えないが、淡いピンクの服を着た人が、部屋の入り口に立っていた。きっとあの人も、あたしを見て驚いているに違いない。深流はそっと息を付く。しかし、そんな深流の想像は、いい方向に裏切られた。

「まぁ。お人形みたい」
 ピンクの服を着た女性は、明るく弾む声をあげて、深流に近寄ってきた。深流の目の前で腰を屈めて、深流の顔を覗き込んだ。深流は瞳を凝らして、その女性をじっと見つめた。歳は四十代後半というところか。ふくよかな身体つきと、淡いピンクの服が、よりいっそう柔らかな印象を与える。
「初めまして」
 女性は深流の前に置いてあった椅子に腰掛けると、よく通る若々しい声で深流に話し掛けてきた。
「十五歳なんですってね。わたしが十五のときは、もっとオデブちゃんだったわ。あなたももう少しお肉がついたほうがよさそうね?」
 それを皮切りに、女性はあきもせずにあれこれと深流に話し掛けた。深流は曖昧に頷いたり、はい、とかいいえ、としか答えなかったけれども、あまりいやな気はしなかった。どちらかと言うと、深流は慣れていなかったのだ。初対面の人間と話をする、ということに。
「近いうちにまた遊びに来るわね。身体に気をつけて」
「……」
 深流は黙って頷くと、椅子から立ち上がりもしないで目だけで女性を見送った。それでも女性はそれを気にしなかったらしく、手を振っているらしいのがぼんやりと映った。

 それからもその女性はしばしば深流を訪ねてきた。梶原郁子という名前で、旦那さんと小さな清掃会社を経営していると言っていた。初めて会った部屋で会うこともあれば、食堂で一緒に食事をしたり、娯楽室でテレビを見たり本を読んだりしながら会ったこともあった。そのうちの四度は、郁子の主人だと言う哲雄も一緒だった。温和そうな、口数の少ない男で、郁子とは一回りも歳の離れた、初老と言ってもいいくらいの男だった。
 所長の口ぶりでは、梶原夫妻は深流との養子縁組を希望しているらしい。
「こんにちは。深流ちゃん、どう?」
 郁子はいい匂いのする花束を持ってきていた。深流の知らない花だった。
「こんにちは」
 深流も挨拶を返して、花束を受け取った。腕に抱えるほど大きな花束は、深流の腕の中でむせ返るほどの新鮮な強い香気を放っている。
「すごいお花ね」
「でしょう?」
 深流の言葉に郁子は嬉しそうに頷いた。
「ねぇ、深流ちゃん」
 少し間を置いて、郁子がやや固い声で深流を呼んだ。
「ウチの子にならない?」
 深流はしばらく何も答えずに、ただ郁子の口許を見ていた。今の科白が本当に郁子の口から出たものかどうか、危ぶんでいるような視線だった。
「それとも、わたしのことが嫌い?」
 深流は咄嗟に首を左右に振った。深流の色素の無い髪が、派手に揺れた。
「それとも、何か心配なことでもあるの?」
 深流はその問いに、答える言葉を持たなかった。
 心配なこと。
 何もかもが心配だった。
 物心ついたときには、もうこの施設にいた。今までにも何度か養子縁組の話はあったけれど、大抵の人は一度深流に会ったきり、二度と会いになど来なかった。理由は解っている。何度かそういう人が来る度に、新しい職員が施設に来る度に――とにかく、初対面の相手は明らかに深流を気味悪がって近付かない者が多かった。その理由は、自分がよく解っている。
 この容姿のせいだ。
 自分は視力がうんと弱いから、はっきりと自分の容姿を見ることはできない。写真を見せてもらったこともあったが、やっぱりよく解らなかった。でも、肌の色はなんとなく青白いように見えるし、髪だって真っ白。瞳は――ある人の言葉を借りれば「紅玉のような」色なのだという。
 でも誰も、面と向かって深流にそう言ったものはいなかった。表面を取り繕いながら、それでも決して一定の距離から入ってこようとはしない。お前は普通じゃない、口に出しては言わなくても、態度がそう言っていた。
「あなたの考えてること、私なんとなく解るわ」
 郁子が口を開いた。
「もう子どもじゃないものね、深流ちゃんは。だからはっきり言うわ。確かにね、あなたはちょっと普通とは違う」
 深流は息を呑んだ。はっきりと言われたのは初めてだった。
「でもね、そんなことどうでもいいことなの。……あなたは頭がいいから解るとは思うけれど、周りがあなたを拒否してるだけじゃないのよ。あなたが周りを拒否して、心を閉ざしているのもいけないんじゃないかって、私思うわ」
「……郁子さん」
 郁子の言葉が胸に刺さった気がして、深流はそれ以上何も言えなかった。
 そう。解っている。
 確かに最初は、誰もが深流を気味悪がって、深流を遠巻きにしている。時間が経って、少しずつ心を開こうとする相手に、自分から心を開こうと思ったことなんて一度もなかった。容姿が普通と違うことに引け目を感じ、そのことをはっきりと指摘されて傷つくことを恐れて、自ら向かって行こうとしなかった。相手の好意は、すべてが同情と思っていた。
 わたしが普通と違うから、憐れんでいるんでしょう?
 いつも、そういうふうに思っていた。
「私は深流ちゃんが羨ましいなーって思うわ。お勉強もよくできて、スタイルだって、ちょっと細すぎかもしれないけど、すらっとしてる。髪もさらさらで、目なんかパッチリしててお人形みたいだもの。私も深流ちゃんみたいに綺麗に生まれて来ればよかったのにな、って」
「綺麗?」
 初めて言われる誉め言葉に、深流は敏感に反応した。
「ええ。とっても。それにね」
 深流は郁子の言葉の先を待った。
「どうしてもどうしてもいやだ、って言うなら、髪だって染めちゃえばいいし、カラーコンタクトだってあるのよ。見た目なんて結局、大した問題じゃないのよ。それでも、心配?」
「……ええと、……」
 深流は何をどう説明していいのか解らず、途方に暮れた。
 郁子は深流のことをちゃんとみていた。深流のことを解っていた。こんな人と一緒にいられたら、幸せかもしれない、深流は初めてそう思っていた。
「だいじなことはね」
 郁子はやや声をひそめて、宝物の在り処を明かすような口調で言った。
「深流ちゃんが、ちゃんとここに生きている、って言うことなのよ。それが深流ちゃんにとって、一番だいじな真実」
「真実?」
 深流は郁子に問い返す。
「そう。深流ちゃんは、ちょっとした理由で、普通の人とは違う姿で生まれてきちゃったけれど、それも全部含めて深流ちゃんなのよ。他の誰でもない、深流ちゃんはここにいるたった一人の深流ちゃん。これはほんとうのことでしょう?」
「――はい」
「だから、安心してウチの子になりなさい。何か困ったり、傷ついたりしたら、私とダンナで守ってあげる。嬉しいときは一緒に喜んで、悲しいときは一緒に泣いて、そうやって家族になっていきましょうよ? きっとこれからも、深流ちゃんはその容姿のことで傷つくこともあるでしょう。目がよくないことで、辛いこともあるかもしれないわ。でも、きっときっと守ってあげるから。ね?」
 郁子は深流をじっと見ていた。どうやら郁子の申し出を受け入れるより他に、選択の余地は無いように思えた。
「……わたしなんかで、いいんですか?」
 深流が恐る恐る口を開くと、郁子は深流を抱き寄せ、力任せに抱き締めた。
「ばかね。そんなこと聞くものじゃないわ。いやならこんなこと、言うわけないじゃないの。私は深流ちゃんにかわいい洋服着せたり、一緒にケーキバイキングに行ったりしたいの。うんと自慢して歩くのよ。こんなに綺麗で、頭のいい娘なのよ、って」
 最後の方は涙声だった。深流も涙を浮かべながら、照れ隠しに笑いながら言った。
「郁子さん……苦しいよ」

 深流は晴れ晴れとした気持ちで、施設の玄関から白い建物を見上げていた。幼いころの空想が現実になった喜びで、深流は胸がいっぱいだった。
 郁子は深流を救い出してくれた。施設という閉じられた空間から。それから、容姿に対する引け目から閉じこもっていた、自分と言う名の小さな殻の中から。
 郁子の言うように、きっと辛いこともあるだろう。その度に自分は多かれ少なかれ傷つくはず。でも、それを癒してくれる人と、深流は出逢った。
「深流ちゃん」
 郁子が深流のほっそりとした手を取った。深流はしっかりとその手を握り返しながら、郁子のくれた言葉を反芻し続けた。

 今ここに生きていることが、一番だいじな真実。

「そのうち、ちゃんとお母さん、って呼んでね。ずっと夢だったの」
 郁子が笑いながら言った。深流ははにかんで何も答えなかったが、郁子の夢が叶うときが遠からずやってくることを知っているのは、深流だけだった。

#短編小説

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