北風とスカーフ

 冷たい北風に、智歌はジャケットの襟を立てた。こんなに風が強くなるなら、マフラーしてくればよかったなぁ、そんなことをぼんやりと思って、智歌は時間を確認した。
 待ち合わせの時間まで、まだ小一時間あった。待ってる間、何をしていようか?
そんな風に考えていたときだった。智歌のお気に入りのアーティストの曲が、智歌のバッグから流れてきた。携帯だ。
「もしもし?」
 北風に首を縮めながら、智歌は携帯を耳に押し当てた。
『ああ。俺』
 裕一だった。裕一は智歌と付き合いだしたすぐのころから、電話でも『俺』と名乗るようになっていた。
『悪い。今日何時上がりか分からなくなった』
「えっ?」
『終わったらまたデンワするから。じゃ』
「ちょ……裕一?」
 既に電話は切れていた。つー、つー、という音を空しく聞きながら、智歌は携帯をバッグにしまった。さて、どうしようか?
 予定が急に変わるのも、別に珍しいことではなかったけれど、この冷たい北風の中、すぐに帰ってしまうのはなんだか癪だった。

 智歌は駅の近くのデパートにいた。
 別にこれと言って目的があるわけではなかったが、冬に向けて新しいマフラーでも買おうかと考えたのだった。服飾品売場を何度か行き来しながら、あれこれと探してみるが、ピンと来るものはない。そっと溜息をついて、智歌は一度売場を離れた。裕一に電話してみようかと考えたが、仕事中に電話をされるのが嫌いな裕一の機嫌を損ねるのもいやなので、考え直す。

 デパートの中のカフェで時間をつぶすことにして、とりあえずテナントの書店に立ち寄った。ファッション誌を買って、カフェに入る。カフェオレをオーダーすると、雑誌のページを繰る。見るともなく見ているだけなので、思うように時間も過ぎない。智歌は溜息をついて、もう一度時間を見た。いつもならそろそろ裕一の仕事が終わるころだ。気にしていないつもりでも、つい携帯に意識が向いてしまう。
 智歌はそれでもカフェオレをお代わりして、ゆっくりとそれを飲んだ。雑誌も一通り見てしまって、もうあまり読みたい記事も残っていなかった。

 智歌は服飾品売場に戻って、大判のスカーフを買った。
 マフラーほどは暖かくないけれど、首の隙間に冷たい北風が入り込むのを防ぐ役には立つだろう。スカーフを一枚買うだけなのに、いつもの買い物の三倍は時間をかけた。それでも裕一からの電話は来なかった。
「まったく、何やってんのかしら、裕一ったら」
 智歌は諦めてデパートを出て、駅に向かった。もう帰るしかなさそうだった。

 駅のホームで、やっと裕一から電話がかかってきた。
 が、それはさらに智歌をがっかりさせた。裕一はさらに仕事が長引いてしまい、約束はキャンセルにして欲しいということだった。
「あたし、何やってるんだろ」
 智歌は小さく呟いた。最寄の駅から自宅までは、ますます風が冷たく感じられて、辛かった。
 部屋についたら、すぐにバスタブにお湯を張って、入浴剤を入れて、のんびりお湯に浸かろう。
 そんな風に考えながら、智歌は早足で自宅に向かう。デパートで買った大判のスカーフは、思ったよりも北風を防いでくれて、ほんのりと暖かささえ感じられるほどだった。

 のんびりお湯に浸かりながら、智歌はぼんやりと思う。
 こんな毎日だけど、あたしはけっこう幸せだ。
 すべてがうまくいくわけじゃない。
 だけど、何もかも思い通りにならないわけでも、ない。
 何でもない毎日を、何でもないまま過ごせる今は、やっぱりけっこう幸せだ。
 薄桃色のお湯に耳まで浸かって、ゆっくりと息を吐く。ぶくぶくと泡ができて、すぐに消えた。

「なかなかいい柄じゃない」
 智歌はバスタオルで髪を拭きながら、ハンガーに掛けてあった、買ったばかりの大判スカーフを眺め、満足そうに頷いた。

#短編小説

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