見張り塔から

 その塔は、国境にひっそりと立ち尽くしていた。
 何年前に造られた塔なのか、誰一人として正確なことを知るものはいなかったが、確かにそこに建っていた。石を積み重ねて造られたその塔は、ところどころ風化によって角が取れ、隙間からは雑草が這い出し、また崩れそうな部分は後の時代になってから補強されて、なお「見張り塔」という役目を担っていた。国にとっては大事な塔だった。

 新月の夜。
 見張り塔の天辺の見張り台に、二つの人影があった。小さな角灯は、そこから洩れ出る光が塔の周りのどこからも目に付かないように、見張り台の陰に隠すように据えてある。新月だけあって、微かな星の明かりでは暗い森を見渡すのは難しかったが、逆を言えば暗い夜だからこそ明かりが目に付き易く、見張りもやり易かった。
「いつまでこんなこと、続けるんだろうな」
 二つの影のうち一つが、面倒そうに囁いた。
「これがおれ達の任務なんだから、しょうがないだろ」
 もう一つがなだめるように言う。
「そうは言ってもねぇ……」
 溜息混じりにそう言った影は立ち上がると、見張り台の奥からパンとチーズの固まり、水筒を取って戻り、また寝そべった。
「ありがと」
 残っていた影は、礼とともにチーズを受け取る。
 その時風向きが変わって、角灯の隙間に風が入り込んだようだった。ゆらり、と風に揺られた炎が、ほんの一瞬、二つの顔を闇に浮かび上がらせた。
 二つとも、せいぜい十四歳くらいの少年の顔だった。さっきパンを運んだ少年――リュイールが、ちっと舌打ちをする。
「この角灯もボロいよな。こんな角灯を大事に使ってるなんてあいつらに知れたら、ひとたまりもないよなぁ」
「――不用意にそんなこと言っちゃだめだよ。おれ達だって、もしかしたら見張られてるかもしれないんだし」
 もう一人の少年――フェイウォウは、用心深く声をひそめる。
「とにかく夜が明ければまた休めるんだから。もうひと頑張りさ」
 ――それに見張りをやってるおかげでパンやチーズにありつけるんだから、そう悪くもない――フェイウォウは声に出さずに思った。
 この国は、この見張り塔を隔てた隣国との戦争に明け暮れていた。
 とは言っても、戦争状態がもう十数年に及んでいるため、そもそも戦争に突入した理由も、両国の大義名分もほとんどが忘れ去られてしまった。最初の三年ほどは、両国間で大きな衝突や、大規模な戦役が繰り返され、両国共に国力を疲弊させてしまった。共に疲れ、傷ついた。それでも両国の間には、ただ「戦う」という行為だけが居座り続けた。何のために戦い続けるのか、そしてこれがいつ終焉を迎えるのか――確かなことは誰にも解らなかった。
 国境付近での小競り合い、小さな村への強奪、略奪、入り乱れる密偵たち、裏の世界で交わされる口約束――。この国の責任者たちは、この戦争を終焉に向かわせる努力をしていないらしい。それは隣国にとっても同じこと。そしてこの両国間の小さな争いで、僅かながらの利益を得ている第三国の存在。
 この戦争には意義がないことに、この国の民衆たちも、隣国の民衆たちも既に気付いていた。何かの意図があって、終わりのない戦いを続けさせられているのは、国の中にいて弱い立場にあるものだけ。下層の兵士、僅か十四、五の少年兵、地方で「兵士を支えるため」の労働を強いられる女や子供……。
 リュイールやフェイウォウもそんな少年だった。二人は同じ村で育った幼馴染で、他の幼馴染たちが次々に任地に赴く中、この塔での監視を言い渡されてやってきた。任に就いて、そろそろ四ヶ月が経とうとしていた。
 現在、この国には満足に戦える兵士が極端に少なかった。少年兵は主に夜間の監視、奇襲攻撃の訓練と実行、前線の援護の役目などを担う。身軽で目がいい少年兵は、このような任務に付くのが望ましい――と総帥が言ったとか言わないとかいう噂が、二人の任地である見張り塔にも伝わってきたが、それに対してリュイールはこんな感想を述べた。
「あの総帥じゃ太りすぎて、見張り台に寝そべることだってできねぇだろうからな」
 見張り塔での任務は、隣国の動向の監視と異変時の伝達。見張りの任には、二人の少年の他に、前線で負傷したものの、監視・伝達の任務をこなす自信のある兵士の中から、志願してやって来た四名が就いていた。四名のうちの一人が責任者を兼任している。
 昼間は四人の兵士が交代で見張りに就き、少年たちは夜の監視を任されていた。少年兵は目がいいから、というのは表向きの理由で、実際のところは、もう夜中に奇襲などが行われる情勢ではない、だから少年が見張りに立っても問題ない、というところか。
 暫く二人は、じっと身動きもせず、黙りこくったままで暗い森を見つめていた。リュイールは水を喉に流し込んで、隣で眠そうな目をしているフェイウォウを見た。
「なぁ。フェイ」
 欠伸をかみ殺しながら、フェイウォウがリュイールを見つめ返した。涙が滲んだ目をこすって、リュイールに問い返す。
「何?」
「……おれ、もうすぐここを離れることになると思う」
「――何で?」
 フェイウォウは静かに尋ねた。フェイウォウにはリュイールが何を考えているのか、なんとなく解っていた。それでも尋ねなければならないように感じたのだった。
「うん。志願して前線の突撃部隊に加わろうと思って」
「――」
 ――やっぱり――フェイウォウは心の中ではそう呟いたが、実際には何も言わなかった。
「……止めないのか?」
 フェイウォウはわざとらしく肩をすくめて見せた。
「止めたって聞かないだろ? オマエは。付き合い長いから、解ってんだよ」
 そして寂しげに笑った。
「そっか。……おれさ、考えたんだ」
 リュイールは真剣に語り始めた。
「いつ終わるか解んない戦争だけど、その中でおれにできることって何だろう、って。おれバカだからさ、結局戦うことしか思いつかなかったんだ。……死ぬかもしれないんだよな、前線に行くってことはさ。――それでも、行こう、って。それで何がどうなるとも思ってないけど、ここでずうっと監視の任に就いてるのも、なんか性に合わないし。だから」
「うん」
 フェイウォウはただ頷いただけだった。長い間、二人を闇と森の静寂が包んでいた。その静寂を突然破ったのはフェイウォウだった。
「ごめんな、リューイ」
 リュイールは目を瞠った。そしてフェイウォウにその真意を尋ねた。
「……おれは、オマエとは一緒に行けないから」
「何バカなこと言ってんだよ。オマエは前線になんか行ったって、何の役にも立たねぇよ。だからここでしっかり見張っとけ?」
「……」
「フェイ……オマエにはさ、前線で戦うことじゃなくて、他に何かできることがあると思ってんだよね、おれは。おれと違って頭もいいし、いろんな本を読んで、いろんなものを見て、そしていろんなことを考えてる。だからさ、そうだな……どうしたらこの戦争を終わらせることができるか、考えてくれよ」
 そう言ってリュイールは、乾いた笑い声をあげた。
「そんなこと、おれにできるわけないだろ?」
 フェイウォウはそう言い返した。それでもリュイールはただこう応えただけだった。
「この戦争を終わらせる方法を、なんとか考えろよな」
 それきり、リュイールはもう何も言おうとはしなかった。フェイウォウも黙って監視を続けた。
 時間だけがただ淡々と流れる中で、二人はまるで見張り台の一部になってしまったかのように身じろぎもせず、ひたすら夜が明けるのを待っていた。

 リュイールはそれから一週間後に、前線の突撃部隊への参加を志願した。監視任務の責任者であるシェイバーツは、その志願に難しい顔をした。
「……わざわざ志願することもないだろう?」
 他の兵士が近くにいないことを確かめてから、シェイバーツはそっと言った。
 シェイバーツはもともと前線で戦う兵士の一人だった。近頃では大規模な戦役となった「ジャガルザの丘の戦役」で、上官を庇って右腕に矢傷を受けてしまった。しかしそれは毒矢で、解毒剤がなかったためにやむなく肘から先を切断したのだが、その負傷のために英雄にまつりあげられてしまったのだった。
 どこに行っても自らの右肘に視線が集中するような気がして、シェイバーツは居たたまれなくなり、結局志願してこの見張り塔にやって来た。戦役での負傷によって「責任者」という肩書き付で。
 リュイールもフェイウォウも「右肘のない英雄」に対して大きな敬愛を寄せ、ほんの僅かな空き時間を狙ってはシェイバーツに纏わりつき、数々の経験談を語ってもらった。そのうちに二人の「英雄」への敬愛は、シェイバーツ自身への敬愛へと変わっていった。二人はシェイバーツという男に心の底から惚れ込んでいた。
 シェイバーツの厳しい視線にも怯まずに、リュイールは軽く頭を振った。
「ただ見張ってるだけの任務に、どうしても耐えられなくなったんだ。見張りが重要な任務とも思えないし、第一じっと見張ってるだけなんて、おれはいやだ。この戦争がどうなっていくのか、戦場に立って確かめたい」
「本気でそう思っているんだな?」
 リュイールは、今度は力を込めて頷き返した。
「それなら、俺はもう何も言わないよ。――フェイが悲しむだろう?」
「……フェイにはフェイで、やれることがあると思うから。おれにはこれしかできないから」
 リュイールは自分に言い聞かせるような口調だった。シェイバーツはそれ以上何も言わずに、一枚の紙を持ってきて、それになにやら書き付けた。
「お前が志願したことを正式に報告する。多分令状が出るのは二週間ほど先になるだろうが。それまではここでの任務に全力を尽くしてもらう」
 その言葉にリュイールはただ頷いた。真剣な眼差しには、ただの少年とは思えないほどの力強い光が宿る。
「任務に戻れ」
「はい!」
 リュイールはシェイバーツに敬礼を返し、立ち去った。

 リュイールが見張り塔を出発する日はあっさりと訪れた。リュイールの志願以来、リュイールとフェイウォウは共に監視に就くことはなくなっていた。前線に赴く兵士が――たった一人の少年兵であっても、兵士という身分に差はない――、連日の夜間の監視に当たっていては、合流してもすぐに動けないかもしれない、というのがその理由だった。
 結局二人は、リュイールの出発の朝まで、まともにお互いの顔を見ることもなく、言葉を交わすこともないままだった。
 出発の時間に任に就いていない三人に見送られて、リュイールは見張り塔を発とうとしていた。リュイールはまず、ヴェルーガの兵営地に向かうことになっていた。ヴェルーガまでは三日ほど。この付近からヴェルーガに向かう兵士たちと中継地点で合流する。その地点までは、ほぼ半日の旅程だった。
「油断するな」
 シェイバーツが緊張した面持ちで言った。リュイールは決意を込めて頷いた。
 見送りの三人――シェイバーツと、もう一人の監視兵、そしてフェイウォウ――に敬礼して、リュイールは歩き出した。暫くじっと立ち尽くしていたフェイウォウは、シェイバーツを振り返った。
 ――どうした、行ってこい――。
 シェイバーツの瞳は、確かにそう言っていた。
 瞬間、フェイウォウはリュイールを追っていた。監視兵が咎めるような視線をシェイバーツに向けていたが、シェイバーツはそれに気がつかない振りをした。
「リューイ!」
 フェイウォウは叫ぶ。そして黙々と歩いていたリュイールの肩に腕を廻して、前を見たままで、言った。
「死ぬな。絶対。――死ぬなよ」
 リュイールは首筋に暖かな雫が落ちたのを感じた。振り返ろうとするリュイールを、フェイウォウが制した。
「いいから。そのまま前を見てろ。……おれには、何もできることなんてないよ。でも、オマエが言ったこと、考える。いつか戦争なんて終わる。……だから、それまで死ぬな。他の誰を盾にしてもいいから、オマエだけは死ぬな。いいな?」
 リュイールはただ頷くことしかできなかった。
「絶対だぞ」
 リュイールはもう一度しっかりと頷いた。フェイウォウはそれを確かめてから、腕を放してさっと身を翻した。
 それからはお互いに、一度も振り返らなかった。
 一人は戦場に――一人は見張り塔に。
 ただの一度も振り返ることなく、真っ直ぐに向かって行った。

 国境の塔の取り壊しが決まったのは、両国間で調停が結ばれてから三年目の出来事だった。
 もう見張り塔は必要なかった。
 取り壊しの直前に、一人の青年が塔を訪れ、その足元に佇んでいた。青年はいとおしむように塔の肌を何度も何度も撫でていた。劣化し崩れ落ちた塔の欠片を、青年は宝石を扱うような慎重な手つきで、大切そうに絹のハンカチに包んで懐にしまった。
「そろそろ参りましょう?」
 待たせてあった御者が青年に声をかけた。青年は頷いて、それでも名残惜しそうに塔を見上げた。ひとりでに溢れ出した涙を拭う術も知らぬ様子で、ただ青年は塔を見上げ、見つめ、そして何度も振り返り、ゆっくりと時間をかけてその場から離れた。
 少年だった、あの頃。
 不意に、青年の脳裏に幼馴染の少年の顔が浮かんだ。
 ――今ごろ、どこで何をしているんだろう? 戦争は終わった。この塔もなくなる。だけど、あの日々はもう帰らない――。
 青年は馬車に乗り込んで、次第に遠ざかる塔を見ていた。青年の視界を深い森の影が遮り、ついに塔は見えなくなった。
 ――もう二度と、あの塔を見ることもない――。
 青年は薄暗い馬車の中に視線を戻す。懐の欠片を服の布地の上からそっと握り締めながら、青年はゆっくりと瞼を下ろした。
 脳裏には深い森と闇。その闇は生涯、青年を捕らえて放すことはない――。

#短編小説

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