パールピンクの魔法


 そのままの自分を曝け出して生きている人間なんて、この世にはほとんどいないんじゃないかなぁ、って思う。
 十四年しか生きていないボクだってそうだ。
 ボクはきっと普通じゃないんだな、って気がついたのは、小学校の高学年になった頃だったと、思う。気がついたけど、誰にも言えなかった。言いたくなかった。
 言ったところで、多分誰も解ってはくれないような気がしたから。どれほど言葉を尽くしても、どれほど時間を割いても、きっと解ってくれない。
 だからボクはボクのことを、誰にも喋らず、ひっそりと胸にしまって、普通の人に紛れて生きていこうと思った。苦しくないとは、言えない。誰かにボクの気持ちをぶちまけてしまいたい。これくらいへっちゃら、なんて強がりも言えない。
 誰の目にも普通に映ることだけ考えて、ボクは生きている。
 だけどたまに、深く考え込んでしまうときもある。
 一体、普通ってどんなことを言うんだろう……?

*   *   *

 近頃の中高生はおしゃれになった。そしてとてもきれいになった。
 度を越えているな、と思うこともないわけじゃないけれど、とにかくおしゃれできれいで、それでいてなんというか、自分を主張しすぎない。誰もが同じに見える。だけどそれはきっと、とても楽で安心なことに違いない、と思った。
 もしも私が今、中高生として生きていけたら、どんなにか幸せだろう、と、彼ら彼女らに出会うたびに羨望の眼差しを向けてしまう。そのたびに私は自分への戒めを思い返し、密かに首を振るのだった。
 私は今年で三十六になる。市役所の住民課に勤めて十四年。自分で言うのもなんだけど、与えられた仕事を淡々とこなしていくのは私の性によく合っている。週の半分は仕事帰りに大きな書店に立ち寄る。店内をぶらついて本を探すのが唯一と言っていい楽しみだ。特に決まった作家やジャンルの本を読むわけではない。ノンフィクションもよく読む。手にとって面白そうだと思った本は何でも読んだ。
 私は今日もぶらりと書店に立ち寄った。電車の中吊り広告で、わりと好きな作家の文庫版の新刊が今日発売されると知っていたので、まずは迷うことなく文庫新刊の並んだ棚を目指した。その他にも数冊を手にとって、それから私はいつものように店内をぶらぶらし始めた。学生のころは食費を切り詰めてでもハードカバーの本が読みたかった。最近はすっかり手を出さなくなったのは、より安価でよりたくさんの本が読みたいからだった。
 なんとなく週刊誌のコーナーを巡り、それからふと思い出して文具が並んでいる棚に向かう。少し前から付箋が欲しいと思いながら、ついつい買いそびれていたのだ。そこで私ははた、と足を止めた。
 雑貨と呼ばれる類の商品が雑多に並ぶ棚の前で、どこかおどおどとした視線を辺りに配る少年を見つけたからだった。小学生だろうか? いや、中学生? でもあの雰囲気で私は彼の目的を察した。何か盗ろうと思っているに違いなかった。
 ただ、ひどく違和感を覚えた。
 とてもその年頃の少年が欲しがるようなものは、その場にはなかったから。どちらかというと女の子が欲しがるような雑貨類が、それこそごちゃごちゃと放り出してあるような棚だった。あるいは他の売場からこっそり持ってきた何かを盗ろうと思っているのだろうか。私はそう考えてみたが、しかし彼の手には何もなかった。私がじっと様子を伺っていることに気が付いたのか、彼は振り返り、あくまでも平静を装ってその場を立ち去った。私は半ば呆然と彼の背中を見送り、そして密かに彼の犯罪を防げたことにほっとしていた。
 なんとなく、雑貨類の中に埋もれる、可愛らしいうさぎのキャラクターが描かれたメモ帳を手にとってみた。三百円の値札が張り付いている。近頃の子どもたちはお小遣いをたくさんもらっているというから、案外スリルを求めてこんなものでも盗ってみようと思ったのかもしれない。別段欲しいわけではないものを盗るか、古本屋に売っ払って小遣いの足しにするためのコミック本の万引きが増えていると新聞で読んだ。あの少年も何かスリルを得たかったのかもしれない。
 それは間違った方法だよ、と、きちんと教えてやれる存在がいないのか──そう思うと急に寂しく思えた。
 それからもたびたび、あの少年を見かけるようになった。いや、見かけるというよりは、気になってしまうという方がうんと近い。
 店内で彼を見つけると、ついその動向が気になって、私服警備員かのようにこっそりと後を追うようになっていた。しかしあれきり彼はおかしなそぶりを見せようともせず、週刊誌を立ち読みしたり、コミック本の棚の前をなぜかせかせかと行ったり来たりし、ほとんど何も買うことなく店を出るのだった。

*   *   *


 普通に目立たないように生きていても、ふとしたときに自分に負けそうになる。今日は危ないところだった。ぎりぎりのところで踏みとどまれたのは、あの人が見ていたからだろう。きっとあの人も、変に思ったに違いない。
 誰が見ても、それがお店の人だったとしても、きっと変に思っただろう。
 まだ胸がどきどきしている。
 悪いことをしようとしてしまったことに、ボクはどきどきしていた。
 これからも、我慢していけるだろうか。ずっと一生、誰にも内緒にしていられるんだろうか。考えると不安になる。だけど、どうしようもない。
 普通に生きていかなくちゃ。
 目立たないように、普通に。

*   *   *


 ある夕方、私は意外なところであの少年を見かけた。
 いや、冷静に考えてみれば意外なことなど何もない。ただ見かけたのがいつもの書店ではなく、書店から駅方面に歩いて四、五分のコンビニだった、というだけのことだ。これから塾に行くらしい中高生や、仕事帰りの独身者らしき若い男たちで店内はそこそこの賑わいだった。私は目的のお弁当のコーナーに行く途中で、スナックの棚のあたりをうろついている彼を見つけた。彼は忙しなく視線を動かして、まるで店を出る隙を窺っているようだ。私は彼の様子にぴんと来た。走って逃げられたら、とても追いつけないだろう。もちろん、彼を捕まえてコンビニに突き出そうとか、警察まで連れて行こうとか思った訳ではない。たった一言、言ってやりたかった。
 そんなことをしちゃいけない、と。
 その気持ちは彼には届かないかもしれないけれど、いけないこと見過ごす大人だけではなかったのだと、彼に知ってもらいたかったのかもしれない。
 ただ、きっかけが難しかった。できることなら何かを盗る前に声をかけてやりたいが「買うつもりだった」と居直られる可能性だってある。この際コンビニ側に多少の被害には目を瞑ってもらうことにして、彼が店から出るのを待った。私自身、何も買わずに出入りするのは不自然なので、たまたま目に付いたのど飴をひとつ手にとると、すぐにレジに並んだ。彼がうろうろしている。ガラス張りになった雑誌の棚の前で、何か立ち読みをしている。それからゆっくりと雑誌を棚に戻して──目的のものはなかった、とでも言いたげな、どこが自信を持ったような動きだった──、店を出た。店員は気がつかないらしかった。私は小銭できっちり会計を済ませ、店員が差し出すレシートを断ってやや足早に店を出た。彼の、俯き丸まった小さな背中を見ていると、声をかける勇気が消え失せそうになった。自分の行為を後悔しているのだろうか、と、素直に思えたからだ。そこに追い討ちをかけるような真似を、果たしてしてもいいのだろうか。そんなことを考えながら彼の後姿を追ううちに、賑わった通りを左に折れて、小さなビルの非常階段の陰に隠れるように入っていくのが見えた。
 私は立ち止まり、深呼吸をして気持ちを落ち着け、それから陰に入り込んだ。

*   *   *


 ついに、やってしまった。
 頭の中ではぐるぐると後悔する気持ちばかりが渦巻いている。ただあの時は夢中で、本当は何をどう考えていたのかさえ覚えていない。さっと手に取ったとき、誰かが見つけて叱ってくれればいいと思った。けれど、救世主は現れず、ボクは店を出てしまった。
 ポケットの中のころりとした感触は、最初はひんやりしていたけれど、ボクの手の温度が伝わって温かくなった。だんだん落ち着いてくると、誰にもばれずにここまで来れたことにほっとしていることに気がついた。
 ばれてないんだ。
 ほっとしたのに、頬が強張っているのが解る。ボクはポケットの中身をそって握り締めて、恐る恐る取り出した。心臓がばくばくいっている。どっちにしても、持って帰ることなんてできやしないんだ。もう、返すことだってできない。だから。だから。
 ボクは自分に言い聞かせる。
 ボクだけの、秘密なんだから。誰も見てない。誰にもばれない。だから。
 ボクはごくりとのどを鳴らして、口にたまった唾を飲み込んだ。けれどのどはからからだった。気持ちは決まった。
 ボクはゆっくりと手を開いた。
 そして

*   *   *


 はっと顔を上げた彼とばっちり目が合ってしまった。私は一瞬言葉を失い、彼の顔を呆けたように見つめていた。彼は頬を引きつらせて、しゃがんだまま私を見ていた。手の中にあるものに目が行って、思わずぎょっとした。
「……」
 いや、いまどきの子どもは男でも化粧をするという。眉の手入れをしたり髪を染めたり脱毛をしたり、ネイルアートに凝る少年だっているらしいとは聞いている。しかしあまりにも意外な取り合わせに、私は口を開けなかった。彼はおびえた様子でじっとしゃがみこんだまま、何かに気が付いたようにさっと両手を背中に回し、はじかれたように立ち上がった。私はそれできっかけを掴んだ。
「……どうしてあんなことをしたのかな」
 逃げ出そうと身構えていたらしい彼は、はっとした様子でその場に佇んだ。強張った頬が上気している。
「別にお店の人に連絡しようとか、警察に連れて行こうとか、そんなことを考えているんじゃない。ただ──ただ、それはいけないことだよと、言いたかったんだ」
 私は意識してゆっくりと喋った。彼は俯いている。
「ごめんなさい」
 はっきりと言うと、大きく深く頭を下げた。次に顔を上げたときには、両瞳にいっぱい涙を浮かべていた。
「あの、ボク……」
 私は笑顔を浮かべる努力をした。彼は充分に反省していると解ったから。これ以上何も言う必要はないだろうし、二度とこんな真似はしないだろうと、信じることができた。私は彼に歩み寄って、軽く肩を叩いた。それでも確認したかったのは、私が「いまどきの子ども」を信じきれない大人だからだ。
「もう二度としないね? 大丈夫だね?」
 こくんと頷く彼にもう一度微笑んで、私はその場を立ち去ろうとした。私の背中に、彼のどこか哀れみを含んだ声が届いたのは、そのときだった。
「……変だと思ったでしょう? 普通じゃない、って、思ったでしょう?」
 驚いて振り返る。彼は首を傾げて私を見ていた。
「思っていないよ。私が君くらいのころにはちょっと変だったかもしれないけれど、今はそんなこともないだろう? 君たちの年頃の子は、おしゃれだからね」
 私が思ったままを言うと、彼はふるふると首を振った。
「そんなことないです。だってボクの周りには、こんなものに興味がある友だちなんていないから」
 こんなもの、と、彼が言ったものを、私はしげしげと眺めた。淡いパールピンクの液体がいっぱいに詰まった小壜。私に見つかって慌てたせいだろう、彼の掌や指のところどころに、染みのようにパールピンクがこびりついていた。細くてきれいな指をしていた。私が黙っていると、彼の口からは堰を切ったように言葉が次々と溢れ出た。
「だってボク、普通じゃないんです。小さいころから可愛いものが大好きで、お姉ちゃんが持っている人形やぬいぐるみが羨ましかった。フリルのついたブラウスとか、プリーツの入ったスカートとか、着てみたいと思ってた。だけどお父さんもお母さんも言うんです。男の子なんだから、って。お姉ちゃんみたいにしたいと思っても、男の子はそんなことしないんだよ、って言われて、それがどうしても納得できなくて。だけどそれって普通じゃないんでしょう? だからこんなものだって、買うことなんてできなかった。頭が真っ白になって、気がついたら盗って来ちゃった。一度でいいから、塗ってみたいと思ってたから、それで盗っちゃったのかもしれない。ねぇ、変でしょう?」
 彼の瞳からは次から次へと涙が溢れて止まらない。彼は涙を拭おうともせず、時折しゃくりあげていた。その泣き方はまるで自分を責めているようで、しかし一方で自分を精一杯主張している叫びにも思えて、胸に迫った。だから私は、じっと──ただじっと立ち尽くすことしかできなかった。
 普通じゃない。
 そう。確かに彼は普通ではないかもしれない。だけどそれは、ある一定の価値基準を用いた場合に限ってのこと。でも私は、彼を普通ではないと、言いたくなかった。心のどこかで甲高い笛の音が鳴り響くような、そんな感じがした。知らず呼吸が浅く速くなってゆく。
「──そうか、じゃあ私も普通じゃない、かな」
 誰にも打ち明けたことのない秘密を、私はそうっと口にしていた。彼は真剣な瞳を私に向けた。慈愛に満ちたやさしい瞳だと思った。

*   *   *


 ボクはほっとしていた。
 涙は全然止まらないけれど、それでもこの人の笑顔はボクをほっとさせてくれた。ボクは両手で何度も涙を拭きながら、この人、前に本屋さんで見た人だ、と思った。
 あの時はこの人に救われた。でも今日はどうして、ボクを止めてくれなかったんだろう。そう思うと怒りたいような気もしたけれど、とても怒れなかった。
 今、確かにこの人はボクを助けてくれた。
 この人がここに来てくれなかったら、ボクはまた同じことをしたかもしれない。そしていつかお父さんやお母さんにばれて、もっと大変なことになったかもしれない。
 それに。
 この人はボクの秘密に対しても、やさしく言ってくれたから。

*   *   *


「それはおかしなことでも変なことでもないんだよ。だから、安心しなさい」
 私の言葉に彼は目を丸くした。
「……そんな風に思ったことは、ないのかな?」
 こくりとうなずく。私は彼を促して非常階段の影に並んで腰を下ろした。隣で彼が必死に涙を拭いているのが微笑ましい。私は両手を組んでそっと口許に添えた。さて、何をどう話そうか。──いや、この少年になら、包み隠さず話したところでそう驚くこともないだろう。かえってそうすることで気持ちが楽になるかもしれない。
「私もね、きっと君と同じだよ」
「同じ、って?」
 私はゆっくり頷いた。彼が私の言葉を待っているのが解った。
「私もね、本当はこんな格好じゃなくて、きれいな服を着て、きれいにお化粧をして、本当の自分として生きていたいと思う。でも、私の両親はとても厳しい人でね、男は男らしく、って感じなんだ。小さいころ、どうしてもピンクの服が欲しくてね、一度だけおねだりしたんだ。そうしたら『男が着る色じゃない』って言われて、それっきり。何度も、本当の自分に戻りたいと思った。今でもそうだよ。でも両親のことを考えると、できないんだ。飛び抜けて何かができる必要はないけれど、普通に、平凡に。それが両親の願いだったから」
「そういうの、解る」
 彼がぽつりと呟いた。私は大きく頷き返していた。
「好きになるのも男の人なんだから、きっと私の心は女なんだろうね。君もそう感じているんじゃない?」
 私は彼を見た。彼は真っ赤に腫れた瞼で頷いた。
「君の気持ちを素直に言ったら、お父さんやお母さんはびっくりするだろう。もちろん内緒にしていたっていい。全部言ったからって、すぐに気持ちが楽になるかと言ったら、そうとも限らないだろうけど」
 私はふう、と息をついた。
「君のしたいようにして、いいんだよ。きっと。お化粧したってマニキュアしたって、君は君だから。お姉さんがいるって言ったね。だったらお姉さんにいろいろ教えてもらうことだってできるじゃない。羨ましいよ。私の身近の女の人と言えば母だけだから、おしゃれの話なんてとってもできやしないから」
 彼は恐る恐る口を開く。
「……普通じゃなくても、いいのかな?」
 私は思わず泣きそうになった。
 普通。
 その言葉でどれほど苦しんだり傷ついたりする人がいるんだろう。私はゆるゆると首を振っていた。
「君は普通の子どもだよ。お店のものを盗っちゃいけないことも解っているし、お父さんやお母さんの言うことを真剣に聞こうとしてる。自分が普通じゃないなんて、思わなくてもいいから。大丈夫、自信を持って」
 彼がおずおずと首を縦に振った。私はやっと安心できた。
「……ところで、聞いてもいい?」
「何?」
「………………マニキュアって、どんな感じ?」
 私はたっぷり間を置いて勇気を振り絞り、その質問を口にした。
「なんかね、くすぐったい感じがした。でも、きれいになるのが嬉しいよ」
 彼は、やっとその年頃に相応しい笑顔を見せた。
「塗ってみる? 盗ったマニキュアだけど」
 彼がパールピンクの小壜を差し出した。私はそれを宝物のようにそうっと受け取って、くるくると蓋を回した。微かにつんと来る匂い。とろりとした液体をぐるぐるかき回した後に、小さな刷毛を左の小指の爪に当てた。ひんやりと濡れる感触は、彼の言葉通りどこかくすぐったい。初めて塗ったマニキュアは、分厚く盛り上がって不恰好になってしまった。だけどそんなことさえ嬉しかった。
 ずっとずっと、こういうことをしてみたかった。
 心の一番奥に潜む、深く暗い底へと追いやられていた感情が、喜びと一緒になってくらりくらりと湧き上がってくるみたいだ。嬉しい。嬉しい──。それしか感じなかった。
 もし彼を追ってこなければ、マニキュアを塗るなんてこととは、きっと一生縁がなかった。おかしな話かもしれないけれど、私は彼と出会ったことに深く感謝していた。
「難しいもんだね」
 パールピンクに染まった爪を見ながら言った私に、彼──いや、彼女は少し意地悪そうに笑いながら言った。
「共犯だね、ボクたち」
 私ははっとして──それでも急に楽しくなって笑いながら言った。
「そうだね、共犯だね、私たち。だからこれのことは、秘密にしていようね」
 彼女は少し表情を引き締めて頷いて、それから心から楽しそうに笑ったのだった。

*   *   *


 ボクたちはそれからすっかりマニキュアを仕上げてしまった。ボクはそうでもないけど、ゆうこさん──あの人の秘密の名前なんだそうだ。こっそり教えてくれた──の大きくて少しずんぐりした手にはあんまり似合っていなかった。
「そうだよね、他の男の人と比べたら、結構きれいな手だって言われるんだけど、女の人みたいにはきれいじゃないもんね」
 少し悲しそうに言って、それでも満足そうに笑っていた。
 別れ際、ゆうこさんが言った。
「若い君が羨ましいよ」
 ボクはきょとんとしてゆうこさんを見た。目許が悲しそうにくすんで見えた。
「……どうして? ゆうこさんだって、ちょっと変わってるけど普通の大人の人でしょ?」
 ゆうこさんはボクの頭を軽く叩いた。
「大人っていうのはね、そんなに簡単じゃないんだよ。君もそのうち解るよ」
「ふうん」
 ボクはゆうこさんが何を言いたいのか、ちょっとだけ解った気がした。
「それじゃ、気をつけてね」
 ビルの陰から出たところでゆうこさんが手を振る。銀の街頭に照らされて、小さな爪がきらりとピンク色に光った。ボクも負けずに手を振った。
「さよなら」
 ゆうこさんの大きな背中が、なぜだかとても小さく見えたのが、すごく哀しかった。

*   *   *


 一人になった道すがら、私はただただ爪を眺めて歩いていた。
 彼女にはあんなことを言ったけれど、私はこの秘密と一生付き合っていくことになるだろう。羨ましいと思ったのは、心の底からの本当の気持ちだった。
 だけどせめて今だけは、この爪を心ゆくまで眺めていたい。否応なしに魔法がとける、そのときが来るまでは……





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