雨に濡れて

 じとじとと雨が降り続いた夜のことだった。
 週の頭に、もうそろそろ梅雨が明けるだろう、という予報を聞いたと思ったが、その週は見事に梅雨前線に支配されていた。
 ざっ、と一時に沢山の雨が降るわけでもない。周期的に降ったり曇ったりするわけでもない。本当にじとじとと、細かい雨が静かに静かに降り続いた。朝も昼も夜も、ずっと。

 仕事が長引いて、やっと会社を後にしたのは八時半を回ったころだった。週末だというのに、わたしには一緒に過ごす相手もいない。粒の細かい雨が降り続いていて、それを眺めているだけでも気が滅入ってきた。
 使い古しの傘を開いて、地下鉄の駅に向かう。ビジネス街は息を潜めたように暗く、人影もまばらだ。わたしはますます気分が暗く落ち込んでいくのを感じながら、重い足をなんとか動かした。部屋に帰っても特にすることもないのだけれど、一刻も早く帰りたいと思った。一週間の仕事の疲れと、暗いビジネス街の中で感じる孤独、それから降り続く雨に、うんざりしていたのだと思う。

 地下鉄からさらに電車を乗り継ぎ、駅を出たのは九時ちょっと前だった。まだ雨は止まないようだ。駅から部屋までは歩いて五分もかからないのだが、また傘を開いて歩きだした。
 一分も歩いただろうか。がささ。と傘が何かに触れる音がして、わたしは咄嗟にごめんなさい、と謝ってから、足許に落としていた視線を上げた。誰かが目の前に立っている。その人はわたしの行く手を遮るように突っ立っていた。わたしは相手を確かめるために少し傘を傾けた。そして、その異様な姿に目を瞠った。
 その人は、たった今水の中から出てきたかのようにずぶ濡れだった。淡いブルーのシャツも、ジーンズもたっぷりと水を吸っているのが解る。この粒の細かい雨の中では、二、三日黙って雨に降られていたとしても、こんなに濡れてしまうことはないのではないか。顔色も街灯のせいか蒼白く見えたし、身体が小刻みに震えていた。それもそうだろう。特に週の後半は梅雨冷で、シャツ一枚では肌寒いほどだったから。
 わたしはしばらくその人の様子を窺っていたが、やはりじっと立ち尽くすばかりだった。わたしは不審に思いながらも、その人を避けて歩き出そうとしたが、できなかった。わたしはハンドバッグからハンカチを取り出すと、彼に向かって差し出しかけた。
「……」
 拭いてください、と言おうと思ったが、それもばからしかった。こんなに濡れそぼっているのに、拭いてくださいもないだろう。同様の理由で、傘を貸したところで意味もなさそうだ。躊躇った挙句に口から飛び出した言葉は、わたしでさえも驚く内容だった。
「あの……良かったら家にいらっしゃいませんか? ここからすぐですから」
 その人は、表情の感じられない瞳でわたしを見た。正面から見ると、まだ二十歳にもならないように見えた。濡れたシャツが線の細い身体にぴったりとまとわりついて、頼りなさそうだった。
「……」
 彼は黙ってわたしを見た。わたしは彼が何も答えないので、誰かを待っているのかもしれない、となんとなく思って歩こうとした。不意に彼の冷たい手が、バッグを持つわたしの手首を握った。小さい悲鳴をあげて、それでも彼の様子から、彼がわたしの申し出を受け入れるつもりでいるのが解った。
 わたしも彼も無言で部屋まで歩いた。おかしなことを言ってしまった、という後悔ばかりが胸を突いて、それでも今更断ることもできなくて、わたしは彼を部屋に入れた。彼は玄関でしばらく立っていた。わたしは彼をすり抜けてバスタオルを取りに行き、彼に手渡した。彼は無言でそれを受け取り、黙って髪や身体を拭いた。
「えーっと、今お風呂にお湯入れるから、ちょっと待ってくださいね」
 エアコンの暖房を入れて、すぐにお風呂場に向かう。蛇口から勢いよくお湯を出して、すぐに戻ってみると、彼はやっぱり玄関にいた。
「とりあえず、上がってください」
 狭い部屋ですけど、そう言い添えて、彼を上がらせた。表情は硬く、顔色は恐ろしく白かった。血の気が全くないのだ。わたしはさらに新しいバスタオルを持ってきて、服を脱ぐように言った。彼は戸惑っているようだったが、そんなことに構っていられなかった。半ば無理やりにシャツとジーンズを脱がせて、バスタオルで身体を拭いた。シャツはすぐに洗濯機に放り込んで、その合間にお風呂の湯加減を確認する。
「もう少し待てますか?」
「……寒いんです」
 わたしの問いかけに、彼はそう答えた。
「ごめんなさい、もうちょっと暖房を強くしましょうか」
 わたしがそう言ったときだった。

 ひやり。

 彼の細い腕が、わたしを抱き締めていた。体温の感じられないひんやりとした腕に抱きすくめられて、わたしは一瞬、混乱した。それでもなんとか彼の腕から逃れようとしたが、無理だった。細長いだけに見える彼の腕は、いやになるほど力強い。
「……お願いします。嫌がることはしないから」
 彼はそう言うと、しばらく黙って抱き締めていた。わたしは彼と一緒に氷漬けになっているような錯覚に囚われ、身震いした。それほどに彼からは体温を感じなかった。
 どれくらいそうしていたのだろう。不意に彼が身を引いた。表情も落ち着き、頬に少し血の気が戻っていた。わたしはほっとして、彼にとにかくお風呂に入るように勧めた。彼は黙ってわたしに従った。

 お風呂で充分温まってきた彼は、生き返ったように見えた。ちゃんと生きていたんだ、なんておかしなことを思いながら、わたしは彼にスゥェットを貸した。当たり前だけど袖も丈も足りなくて窮屈そうに見えたけれど、他に彼が着られそうなものがなかったのだから仕方がない。
 彼はホットミルクを飲んで落ち着いたのか、小さな声で言った。
「すみませんでした……」
 わたしは黙って頭を振った。
「おれ、舜っていいます。十六歳、高二です」
「そう。わたしは皐っていうの。宮原 皐よ」
 舜はちょっと笑った。笑顔はあどけない少年だった。わたしもつられてちょっと笑った。しばらく黙ってミルクを飲んでいたが、舜は不思議そうにわたしを見つめて、こう尋ねた。
「何も聞かないの?」
「……聞いて欲しいなら、聞くわ。詮索するのもされるのも、好きじゃないのよ」
 わたしが静かに答えると、舜は何かをじっと考え始めた。
「聞いて欲しくない、って訳ではないと思うけど、うまく話せる自信がないんだ。……この頃、立て続けにいろんなことがあったから」
 舜の視線が宙を彷徨う様子が、なんだか痛々しくて何も言えなかった。わたしはマグカップを受け取ってシンクに下げ、洗濯機からシャツを取り出した。アイロンを当てればすぐ乾くだろう。ジーンズは脱水だけしたが、何しろ梅雨の時期なので、朝までかかっても乾かないかもしれない。乾燥機があればいいのだけど、ぎりぎりの一人暮らしにそんな余裕があるはずもなかった。
 だからと言って、今着ているスゥェット姿のまま、放り出すと言う訳にも行かないだろう、そう思った。泊めてあげるしかないか。そこまで考えると、今度はどこに寝かせようか途方に暮れた。
「ソファ、って訳にもいかないよね?」
 わたしはあまり背が高くない方だが、そのわたしでも寝るには窮屈なソファだった。かと言って来客用の寝具があるわけでもない。仕方ない。わたしがソファで我慢するか。
「わたしのベッド使ってもらえる? シーツとカバーは変えるから、ちょっと待ってね」
 ソファの上で膝を抱えた舜が、頼りない表情でわたしを見た。
「まさかそんな格好で帰れなんて、言わないから。だからそんな表情、しないの」
 わたしは笑いながら、冗談めかして言ったつもりだったのに、舜の目から涙が溢れた。わたしはぎょっとして、焦って舜に近寄った。ティッシュで涙と鼻水を拭いてあげたけれど、泣き止む気配がない。声もあげずに、ただ涙と鼻水だけを流しながら舜は泣いた。わたしは舜の背中をさすってあげた。

 どれくらいそうしていたかはよく覚えていない。舜は真っ赤な目を伏せて、ぽろぽろと涙をこぼしながら、わたしに何度か謝っていた。わたしはその度に、気にしないで、大丈夫よ、というありきたりな慰めの言葉しかかけられない自分に腹が立った。まるで弟か、そうじゃなかったら自分の子供をなだめているような気分だった。
「……皐さん」
 やっと泣き止んだ舜が、遠慮がちにわたしを呼んだ。わたしが首をかしげると、舜はちょっと微笑んで見せた。
「――一緒に寝てくれない?」
 わたしはただ、呆然と舜を見返した。言葉を忘れてしまったみたいに、何も答えることができずにいると、舜は困ったように言い訳を始めた。
「……おれのこと疑う気持ち、解る。おれって、最近までそんなことばっかやってたから。適当にナンパして、適当に遊んで、適当にエッチして、っていう、そういう生活。――皐さん優しいし、正直言って、そういう関係が持てたら、おれ、すっごい嬉しいかもしれない。でも、ダメなんだ。おれね、もう、そういうこと出来ない身体かもしれなくて」
 最後の方は、さすがに俯いて話していた。わたしはカウンセラーじゃないから、舜に何が起こってそういう状況にいるのかを聞こうとも思わなかったし、まだ十代の男の子がそんなことを正直に話した、ということにも驚いた。わたしはわざとらしかったかもしれないけれど、努めて明るく言った。
「そ。――あとでそういう気分になって誘ってきたりしたら、容赦なくベッドから追い出すからね。その前に蹴飛ばしちゃうかもしれないけど。それでもいい?」

 シングルベッドに並んで横になると、さすがに狭くて寝返りを打つのにも気を遣った。舜はまだ起きているようだったが、何も喋らずにただ天井を眺めていた。わたしは舜に背中を向けていたが、やはり眠れそうになかった。
「――皐さん?」
 寝ちゃった? と控えめな声が耳に届いた。わたしは姿勢を変えずに起きてるよ、と答えた。
「なんだか、寝付けなくて」
 わたしの言葉に、舜も頷いたようだった。わたしは身体を舜の方に向けた。
「皐さん、皐さんのこと、抱きしめてもいい?」
 舜もわたしに身体を向けて、囁いた。その表情には緊張の色がありありと浮かんでいた。
「……おかしなこと言ったら、追い出すって言ったわよね?」
 わたしが警戒していると、舜は傷ついたように表情を歪めた。何かを考えるように視線が宙を彷徨い、そしてわたしの視線と絡み合った。
「――じゃあ、抱きしめてくれる……?」
 幼子のように縋るような目で見つめられて、わたしは軽い自己嫌悪に陥った。舜が何を求めているのか、ほんの少しだけ解った気がした。それをちっとも考えていなかった自分にいらだちながら、それでもわたしはそっと舜に腕を伸ばした。舜の首の下に腕を差し入れ、もう一方を舜の肩に回し、遠慮がちにそっと抱いた。舜はわたしの胸元に鼻先を埋めて、ふう、と大きな息をついた。
「……」
 腕の中から、舜の小さな声がした。何を言ったのかはよく聞き取れなかったけれど、別にどんな言葉でもよかった。舜の言葉を求めて、こういうことをしたわけじゃない、そう思ったから。

 それからわたしも舜も、何時の間にか眠ってしまっていた。どちらが先に寝付いたのかはよく解らない。窓の外が僅かに明るくなっているのに気がついて、窓に目を向けると、舜が寝ぼけ眼でわたしを見ていた。
「……おはよう」
 舜の声は寝起きのせいか擦れていた。わたしも挨拶を返して、のそのそとベッドを出た。まだ薄暗いから時間が早いのかと思ったが、相変わらずの雨のせいで薄暗いに過ぎなかった。もうとっくに十時を回っていた。
「お腹空いた?」
 わたしはカーテンに手をかけた。舜はベッドに半身を起こすと、軽く伸びをした。
「うん。……何か食べさせてくれるの?」
 舜は目を擦ってから、ベッドを出てわたしの傍まで来た。わたしは簡単なものだけど、と断ってからキッチンに向かう。舜は子犬のようにわたしの後をついてきた。

 その日は一日、ふたりでずっと部屋にいた。
 舜のジーンズは天気が悪いせいで生乾きで、我慢すれば穿けないこともなさそうだったけれど、何だかかわいそうな気がして、帰って、と言えなかった。舜も口に出しこそしなかったけれど、わたしの部屋にいたいみたいだった。
 ふたりでテレビを見たり、たまにおしゃべりしたり、眠くなったら眠って、お腹がすいたら適当に冷蔵庫の中のもので食欲を満たして、とにかくずっと部屋にいた。舜はその間もずっとわたしに身体を寄せていた。そうしていることで自分自身を確かめているみたいだった。

 日曜日も雨だった。わたしと舜はお昼ころにやっと起き出して、それでもやっぱり何をするでもなくただだらだらと時間を過ごした。舜のジーンズがなかなか乾かないので、ドライヤーを当ててみたりアイロンを当ててみたりしながら、何とか乾かそうとしていると、舜が悲しそうに表情を曇らせながら言った。
「おれがここにいると邪魔?」
「――だって、いつまでもここにいるわけにはいかないでしょう。舜だって学校とかあるでしょ」
 わたしだって明日から仕事だし。そう言いながらアイロンを一生懸命に動かしていると、舜がわたしの腕をそっと掴んだ。
「……皐さんと一緒にいたいよ?」
 そのときの舜の瞳は悲しみで潤んでいた。ただの同情でここにいてもいい、って言ってあげるのは簡単。でも、それはわたしのためにも舜のためにもよくないと思う。出逢ったきっかけが普通だったら、きっとこんなふうに考えたりしなかっただろう。
「――困るよ、それは。あなたは未成年なんだし、いつまでもここにいても、わたしだって毎日傍にいてあげられるわけじゃないんだし。だから、帰りなさい」
「……」
 舜は何も答えなかった。ただわたしに身を摺り寄せて、ぎゅっと手を握った。
「――なんでもするから。仕事もちゃんとする。迷惑かけるようなこともしないように気をつけるよ。だからここに置いて?」
 わたしは黙って首を振るしかなかった。舜は一層強く手を握ってきたが、わたしはその手を握り返してあげられなかった。静かに手を解くと、アイロンに力を入れた。不意に涙が溢れてきたけれど、それを気付かれないように慌ててトイレに立った。舜は呆然とソファに座り込んでいた。

 夜になって、やっと雨が上がった。
 舜は自分のシャツとジーンズに着替えた。玄関先で、舜はわたしを振り返った。
「皐さん、おれ、またここに来てもいい?」
 わたしは頷き返した。でもきっと来ないだろうと思った。舜は何かを伝えたくて、でもそれをどう言い表せばよいのか解らなくて、思いついたままにそう言っただけなんだろう。
「いろいろありがとう」
 舜はわたしの瞳を真直ぐ見つめながら言った。
「どういたしまして」
 わたしもできるだけ明るく答える。舜は最初にそうしたように、突然わたしを抱き寄せた。今度は暖かな腕だった。そして、ほんの一瞬、舜の唇がわたしの唇を掠めた。花びらにくちづけたように、ひんやりとした優しい感触。儚く悲しいくちづけだった。
「バイバイ」
 舜がわたしににっこりと笑いかけた。初めて見る、舜の明るい笑顔。わたしも笑顔で舜を見送った。雨が上がったばかりの湿った夜の空気の中に、舜の後ろ姿が吸い込まれて、消えた。

 それから舜は、一度もこの部屋に来ていない。わたしが思った通りだった。
 何時の間にか梅雨も明けて、日に日に日差しが強くなっていく。夏がやってきたのだ。
 夏特有の埃っぽい夕立が降ると、わたしは何故だか無性に濡れてみたい気持ちでいっぱいになる。
 濡れそぼったわたしに、差しかけられる傘などないことを知りながら。

#短編小説

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