彼女を好きになった瞬間

 彼女のことを好きになったあの瞬間は、今でもはっきり思い出せる。何故だろう。彼女のすました横顔や、笑ったときにちょっとだけ持ち上がる右の唇、うまく言葉が出てこないときにしきりに髪をかきあげる癖、それからあきれたように大きくつく溜息のことは、思い出そうとしないと浮かんでこないのに。


*    *    *


 梅雨の真っ只中だと言うのに、信じられないくらいのいい天気だった。空にはしまい忘れたクリスマスツリーの雪の飾りのわたのような、ふわふわの真っ白な雲が、ところどころに浮かんでいた。
 いやに湿度が高くて、じっとしていても汗がじわりと浮かんできた。
 でも、なんだかいい日だった。
「こんなとこで、サボリ?」
 大学の中庭で寝転がっていた僕の上に、鈴を転がしたような、軽やかで耳に心地よい声が降ってきた。僕は薄く目を開けると、面倒そうに寝返りを打って、声に背中を向けた。
「あたしもサボっちゃおうかな?」
 そして、腰掛ける気配。僕はのそのそと身体を起こしたけれど、これと言ってかける言葉が思い浮かばなくて、結局また寝転んだ。
「梅雨なのに、いい天気ね?」
 彼女は笑って、ジュースのプルタブを引いた。ぷしゅ、と気が抜けたような音がする。しばらく黙って、彼女がうまそうに咽喉を鳴らすのを聞いた。僕は再び身体を起こすと、彼女を見た。
「何?」
「それはこっちの科白だよ」
 僕はちょっと不機嫌そうに答えた。僕は僕の時間を邪魔されるのが嫌いな性質だ。ここに急に現れて、勝手に隣に座って、そしてジュースを飲んでいる彼女は、僕にとっては僕の時間を邪魔する者以外の何者でもない。でもなんだか楽しそうに笑っている彼女を見ていたら、そんなことはどうでもよくなった。
「あたしね、ふられちゃった」
 唐突に彼女が言った。ふうん、とだけ僕は答えた。
「慰めてくれないの? トモダチじゃない」
 僕はしばらく、何も言わずにまじまじと彼女を見つめてしまった。
 慰めて欲しいのだろうか?
 傷ついているのだろうか?
 誰でもいいから、優しくして欲しいのだろうか?
 ただの、顔見知りからちょっと片足を踏み出したような、本当にただのトモダチにでもいいから、何か優しい言葉をかけてもらいたいんだろうか?
 僕は彼女を見つめながら、少しの間にそれだけのことを考えた。
「別にいいけど。……慰めて欲しければ、慰めて欲しいって言うわ」
 彼女はくっ、とジュースをあおると、一瞬だけ、僕を見つめた。

 彼女の瞳の中には、底なし沼の奥のような静けさがあった。
 その瞬間で、僕は彼女の底なし沼に捉えられてしまったのだった。

「失恋して落ち込んでるときぐらい、梅雨らしくじとじと雨が降っちゃえばいいのに」
 彼女が独り言のように口の中で呟いた。
「失恋したときまで雨が降ってたんじゃ、やりきれないじゃないか」
 咄嗟に僕の口から、そんな科白が飛び出した。彼女がきょとんとして僕を見た。
「いや、だからさ。……天気が悪いと気分も引きずられるだろ? そういう時は、嘘でもいいから気持ちいいくらい晴れてる方がいいに決まってるさ」
 僕は口から出任せに、そんな意味のことを口走った。彼女は膝を抱えてじっとしていたが、不意に吹き出した。
「面白いこと言うのね。でも、確かにその通り」
 彼女はジュースを一気に飲み干して、空き缶を振りながら言った。
「ありがと。なんだかちょっと楽になったみたい」
 そして胸の辺りを撫でて見せた。
「ここのところに、何かがつまってた気がするの。今まで。でも、楽になったわ」
 そう、とだけ僕は答えた。
「……そろそろ行かなくちゃ。ホントはサボってる場合じゃないんだ。出席にうるさい教授なのよ、次のアオヤマって」
 僕は黙って頷いた。ドイツ文学論を受け持つアオヤマは、この大学では知らないものがいないくらい、しつこく出欠を確認するいやな女だ。
「じゃ。またね」
 ああ。僕はそう答えて、立ち上がって講義棟に向かう彼女の後姿を見た。はつらつとしていて、それでも何かがかけたような後姿だった。彼女はふと振り返った。
「晴れててよかった。……サボってばっかじゃダメだよ」
 これだけ言い残して、そして駆け足で去っていった。


*    *    *


 彼女とは、それ以上のことは何もなかった。
 顔を合わせれば挨拶ぐらいしたし、たまにお茶を飲んだり、食事をしたり、コンパで顔を合わせたこともあった。
 それでも、それ以上のことはなかった。何も。
 だから僕は、あの梅雨の合間の晴れた日のことを鮮明に覚えているのかもしれない。僕と彼女はあの一瞬、多分誰よりも近くにいたし、誰よりも深く分かり合えた気がするから。
 きっと彼女のすべてを忘れてしまったとしても、あの日のことだけは、いつまでも忘れずにいるんじゃないか、そんな風に感じている。

#短編小説

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