君のいないベンチ

 由利が通いつめる公園には、桜並木と銀杏並木があった。
 桜並木の下は、春の盛りのころには花見の人々で溢れ返る。
 銀杏並木の下は、紅葉の季節には落ち葉で満ち溢れる。この公園の銀杏には雄株しかないので、ギンナンはならない。ギンナンのために銀杏並木を作ったのではなくて、あくまでも紅葉と落ち葉を楽しむための銀杏並木らしい。
 由利はいつものように桜並木の下を通り、噴水のそばのベンチに腰を下ろした。噴水には金色に色づいた銀杏が織物のように浮かんでいる。あまり美しい光景ではなかった。
 由利はふっと息をついて、ノートサイズのスケッチブックを取り出した。

「おねえさん」
 由利は最初、それが自分を呼ぶ声だとは思わなかった。
「おねえさん」
 由利は一心にスケッチブックに向かっている。
「そこの絵を描いてるおねえさん、ってば」
 ようやく由利は顔を上げた。七、八歳くらいの男の子が、由利を見ながらにこにこしていた。由利は鉛筆を動かしていた手を止めて、ちらっと男の子を見た。
「何?」
 由利は子供が嫌いだった。自分勝手で我儘で、うるさくてきたなくて小生意気。
 できれば関わり合いにはなりたくない存在。だからこそ素っ気なく返事をし、すぐにまたスケッチを再開したのだった。たまに子供に媚びるような声で優しく答えるオトナがいるけれど、由利は絶対にそんなオトナになりたくないと思っていた。
「何やってるの?」
 男の子が由利の目の前までやって来た。見れば分かるだろ――由利は心でそう邪険に言い返した。こういうばかな子供は無視するに限る。そう思った。
「何の絵? 景色?」
 男の子は遠慮という言葉を知らないらしい――大抵の子供は知らないだろうが――、由利の手元を覗き込んだ。由利は鬱陶しさを覚えたが、追い払った方が賢いような気がして言った。
「邪魔しないでくれる? 忙しいのよ」
「ふうん?」
 男の子は由利の言葉を簡単に無視した。ベンチの隣に座って、身を乗り出してスケッチブックに見入っている。
「あのね……邪魔しないで、って言ったでしょ?」
「ぼく邪魔なんかしないよ」
 男の子は笑いながら言った。由利の目にはそれがずる賢く汚らしい笑顔に見えた。
「隣にいると邪魔なの」
 由利は睨みつけながら言ったが、男の子は気にも留めなかったようだ。由利はわざと大きく溜息をついて、鉛筆とスケッチブックを片付けた。男の子が帰らない以上、由利が帰るしかない。
「行っちゃうの?」
 男の子は寂しそうに言う。由利はそれを無視して、銀杏並木の下を通り過ぎて公園を去った。

 その後、由利は何度か公園に足を運んだが、男の子は必ずやって来ては由利にあれこれと話しかけてきた。由利が返事をしようがしまいがお構いなしに。それで由利も近くでスピーカーから雑音が流れているのだと思うようにして、スケッチに集中するようになっていた。
 初めの頃は由利を質問攻めにしていた男の子だったが、そのうち自分のことを勝手に喋るようになっていた。
「ぼく、克己って言うんだ」
「今三年生」
「お父さんは郵便局で働いてるよ」
「お母さんはコンビニでレジ係をしてるんだ」
「家ではミニウサギを飼ってるんだよ。名前はミミとリリ」
「ぼくね、……」
 こんな言葉がいくつも飛び出す。母親がパートに出ているから、一人ぼっちで寂しいのか知らないが、由利には関係のないこと、ただ自分のスケッチに集中するだけだった。
 ある土曜日に、やはり由利は公園に来ていた。コンビニで買ったおにぎりとお茶で昼食を済ませて、いつものようにスケッチを始めた。程なく枯れ葉を踏む乾いた音がして克己がやって来た。当たり前のように由利の隣に腰掛ける。
「こんにちは」
 克己は何も答えない、顔を向けることさえしない由利に向かって明るい声で挨拶をする。それからぶらぶらと両足を振りながら、何かを喋り始めた。克己の声は意味のある言葉として由利の耳には届かず、ただ変声期前の少年特有の甲高く澄んだ音が聞こえているだけだった。
 由利はスケッチの手を休めて、残ったお茶を飲んだ。克己は由利のスケッチを見て、呟くように言った。
「不思議な絵だね。寒そうだけど、気持ちのいい絵」
 由利はその感想に驚いて克巳を見た。噴水と、背景に銀杏を描いただけの簡単なスケッチ。色さえ載っていないその絵が、どうしてこの子供には『気持ちのいい絵』に見えるのか――。
 初めてまともに見た少年の顔色は土色で、まるで幽霊みたいなどろんとした目をしていた。ニットの帽子を深々とかぶり、スポーツ選手が着るようなふかふかのスタジアムコートに身を包んでいる。今の時期には少し大げさな防寒着だろう。それに比べるとズボンは随分薄手の生地で、素足にスニーカーを履いていた。ズボンとスニーカーの隙間から覗く足には、まるで肉がついていなかった。
「アンタ、どっか悪いの?」
 由利の言葉に、克己はちょっと話しづらそうに俯いた。答えたくないなら別に答えなくても構わない、そう思っていた由利に、克巳は言った。
「……あの病院に入院してるんだ」
 あの病院、とはこの公園のすぐ脇にある総合病院のことだった。由利は健康だけが取柄の人間だったから、総合病院のお世話になどなったことがなかった。克己がその病院に入院しているということは、それ相当な病気だということだろう。顔色の悪さにも納得が行く。
「病院の屋上から、このベンチが見えるんだよ。ぼくね、絵を描くのが大好きなんだ。だからおねえさんとお友達になりたかったんだ」
 克己は相変わらずにこにこと笑っている。由利は病気の子供への全くの同情だけで、ちょっと話し相手になってもいいか、と思った。媚びたり機嫌を伺ったりする必要もないから、話し相手になるくらいはしてあげよう――。
「ふうん? どんな絵を描くの」
「この前お家に帰った時に、ミミとリリを描いたよ。その前は病院の庭。透析してる時のぼくの絵も描いたことがあるよ。落書き帳を持ってくればよかった。今度は絶対持ってくるね」
「そうだね」
 由利は努めて笑顔になろうとした。子供は嫌いだったけど、克己はどうやら「由利の嫌いな子供」の分類には当てはまらないようだ。放っておいても一人でべらべらと喋り続けるのだから、うるさいと言えば確かにうるさい。だけど話をしている限りではそれなりに頭もよさそうだったし、小生意気なところも見当たらなかった。
「ぼくね、うんと小っちゃい頃から何度も入院してるんだ。学校にもほとんど行けなくて、でも今は院内学級っていうのに行ってるんだ」
「院内学級?」
「うん。病気とか怪我で長い間入院することになると、学校に行けない代わりに行かせてくれるの。ちゃんとお勉強もするし、絵を描いたり工作したり、楽しいよ」
 克己の瞳が少しだけ少年らしさを取り戻した。由利はその様子になんだかほっとして、克己に聞いた。
「今日は?」
「土日はお休みさ。普通の日も、お昼頃には大体終わっちゃうよ。だってみんな検査があるし、先生に診てもらわなくっちゃならないもんね」
「そっか」
 由利はたったそれだけしか答えられなかった。健康そのものの由利には理解できない生活だった。
「ところでアンタ、ちゃんと病院の人は知ってるんだよね?」
「何を?」
「だから、アンタがここに来てるってこと」
 その言葉に、克己はばつの悪そうな顔をした。それで由利はピンときた。薄手のズボンはパジャマ。その上にコートを着ただけだから、素足にスニーカーなのだ。そしてこの表情――誰にも内緒なのだ。由利にも覚えがあった。急に由利は克己を身近に感じて、大きな声を立てて笑った。
「内緒で悪さするのもいいけどさ、アンタ病気なんでしょ? 看護師さんが心配してるんじゃないの?」
「……平気だよ」
 克己は膨れっ面で言った。その様子にも由利は親近感を持った。
「戻った方がいいんじゃないの?」
「平気だったら! ぼく怒られたって平気だもん。だから、ここにいてもいいよね?」
 由利は少し困った。別に傍にいるのは構わないが、それで由利が咎められたり、何かの面倒に巻き込まれたりするのはごめんだった。それに急に克己の具合が悪くなったりしたら、どうしたらいいんだろう? 由利は落ち着いた声で尋ねた。
「急に具合が悪くなったらどうするの?」
「大丈夫だよ。ぼく、ここんとこずっと調子がいいんだ。透析だってちゃんとしてるし。だからいいじゃない」
 思った以上に克己は頑固だった。由利は諦めて溜息をついた。
「しょうがないなぁ。もし具合悪くなったらすぐ言うんだぞ、病院まで連れてってやるから」
「うん」
 克己は満面の笑みで頷き返す。由利はスケッチブックを一枚破り取り、鉛筆と一緒に克己に渡した。
「アンタも描きな」
「いいの?」
「ああ。どうせ安物のスケッチブックだしね。絵を描くの好きなんだろ?」
「うん!」
 克己は瞳を輝かせて、大きく頷いた。由利の手から受け取った紙に、鉛筆で大胆に線を引く。克己は夢中で描いていた。由利もスケッチに集中していた。
 二人が描くことに集中していたのは、ほんの僅かの時間だったに違いない。その穏やかな時間を破ったのは、女性の鋭い声だった。
「克己君!」
 二人とも驚いて顔を上げた。白衣の女性が二人の前で腰に手を当てて立っている。白衣の胸ポケットの縁に黒い線が一本。三十代半ばくらいの、きつい目をした看護師だった。
「黙っていなくなったと思ったら、こんな所にいたのね?」
 そして看護師は、由利に鋭い視線を投げつけた。
「困りますよ、勝手に連れ出されちゃ」
「……」
 由利が言葉に詰まっていると、克己が由利を助けるように言った。
「違うよ! おねえさんは関係ないんだ。ぼくが勝手に――」
「いいから。帰るのよ」
 看護師は克己の言葉を遮り、その細い腕を取って、強引にベンチから立たせた。
「二度とこんなことしないで下さいね!」
 看護師はそう言うと、克己の腕を引っ張りながら足早に病院に向かった。克己は腕を引かれながら、振り返って叫ぶ。
「おねえさん、ごめんね! ごめんね……」
 由利は目の前で起きたことを、ただ呆然と見ていた。無理やりに連れ去られる克己がなんだか可哀相に思えたけれど、どうしようもなかった。そしてほんの少しだけ「これでやっかい払いができた」と思っている自分にも腹が立った。ベンチには、克己の描きかけの絵と鉛筆が転がっていた。

 由利はそれからも何度か公園にやってきてはスケッチをしていたが、あれきり克己が姿を見せることはなかった。最初のときはなんだか寂しい気がしたけれど、次に公園に来たときにはどうということもなかった。今では由利は、克己が来ないことにも慣れつつあった。銀杏の葉もほとんどが散ってしまって、季節は冬に近付こうとしていた。
 木枯らしが冷たい日に、由利はいつものベンチで、すっかり葉を落とした銀杏並木のスケッチをしていた。
「あの……」
 由利は最初、それが自分に向けられた声だと気付かなかった。
「あの」
 二度目は、もっと大きな呼びかけだった。由利が僅かに目を上げると、薄手のコートにショールを掛けた、やつれて蒼白い顔をした女性が視界に入った。A四サイズの書類がすっぽり収まるブリーフケースを、大事そうに両腕に抱えている。
「……はい?」
「私、克己の母親です」
 女性は唐突にそう言った。一瞬由利は記憶を掘り起こして――目の前の女性をまじまじと見た。優しげな目元が克己とよく似ていた。
「――お時間、よろしいでしょうか?」
 母親は遠慮がちに尋ねる。ええ、と由利は答えてベンチを勧めた。
「……随分秋が深まりましたね」
「――? ええ、まぁ」
 由利はそっと母親の横顔を見た。――何を話したいんだろう? と、母親の目から、すうっと涙が筋を描いて流れた。
「克己がここに来ていた、と主任さんから伺ったもので。……これ、貴女でしょう?」
 母親は涙を拭って、ブリーフケースから落書き帳を取り出して、由利に見せた。
 その絵には『おねえさん』という題がついていた。鉛筆を握って真剣な表情でスケッチする女性の横顔。九歳の少年らしくのびのびとした線で、だけどどこか頼りないタッチだった。決して上手い、と言えるレベルではなかったが、由利が一目見てあっと思うほど、その女性は由利そのものだった。
「貴女を見て、驚きました。あの子が描いた絵の女性だ、って……」
 母親は堪えきれなくなったのか、俯いて肩を震わせた。そこで由利はやっと、全てを悟った。
「――克己君は?」
「昨日、初七日が済みました。病院から持ち帰った遺品を整理していたら、この絵が見つかったものですから。ぜひ貴女にお見せしたい、そう思って」
 母親はハンカチで涙を拭って、真っ赤な目で由利をじっと見つめた。
「初めて貴女のことを克己から聞いたのは、まだ秋の初め頃だったと思います。あの公園で絵を描いているお姉さんがいるんだよ、って。でもその後は、全然話題にならなかったから、それっきり忘れてしまっていたんです。……思えば、貴女のことを喋ったら、ここに内緒で来ていることがばれてしまうと思ったんでしょうね。
 克己が内緒で外出していると聞かされたとき、本来なら親である私や主人が克己に注意して、それからどうしても出かけたいようだったら、外出許可を頂いて、付き添ってあげるべきだったんですが……なかなか仕事を休むことが出来なくて。
 それに克己もそれまでとは見違えるほど調子がよかったものですから、ついのびのびになってしまって――。そう思っているうちに、容態が急変したんです」
 母親はそこで一旦口を噤んだ。
「……それは主任さんがここから克己を連れて帰った七日後のことでした。丸二日の間生死の境をさまよって……静かに息を引き取りました――」
 由利はそっと空を仰いだ。晩秋の空の薄い青が、目に沁みた。
 由利の目には、その薄青い空に一筋の煙が吸い込まれるように昇っていくのが見えた。克己の魂が空に昇ってゆくのが、はっきりと目に映った。
「……そうでしたか」
 由利はそれしか言えなかった。
「でも、克己は人生で最後の秋を、あの子なりに精一杯生きたんだと思います。もしかしたら、もうあまり長くないこと、解っていたのかもしれませんね――」
 母親は寂しげに微笑んだ。
「これ、貴女に差し上げたいと思うんですが」
 落書き帳の『おねえさん』の絵を破ろうとした母親の手を抑えて、由利は言った。
「それは克己君の絵ですから。頂けません」
 きっぱりと言うと、由利は思い出したようにスケッチブックを繰った。最後のページに、克己が残していった絵が挟んだままになっていたことを思い出したのだ。
「これ。克己君がここで描いていた絵です。主任さん、ですか? 看護師さんが来て一緒に帰っちゃったときに忘れて行っちゃって。そのまま持っていたんです」
 母親はその絵にじっと見入っていた。まだ描きかけの銀杏の絵。
「お持ちになってください。それも克己君の絵ですから」
「いいんですか?」
「もちろんです」
 母親はその絵を丁寧に扱って、大事そうにブリーフケースに収めた。
「……貴女に会いに来て、良かった」
 母親にそう言われて、由利はいたたまれない気持ちになった。そんなふうに思ってもらえるほどのことを、由利はした覚えがない。それを伝えると母親ははっきりと言った。
「いいえ。あの子もきっと、貴女に会えてよかった、そう思っているはずですよ」
「――だといいんですけど」
 そこで母親はベンチから立った。
「それじゃあ――」
「あの!」
「はい?」
「――今度、お焼香させてもらいに伺っても、いいでしょうか?」
「ええ。あの子もきっと喜びます」
 母親は答えると、由利のスケッチブックの片隅に住所を記した。
「今はパートも辞めてゆっくりしていますので、いつでもいらしてください」
 母親はそう言い残して、由利の前から去った。
 ひとりベンチに取り残された由利は、そっと目を閉じた。
 由利の瞼の裏に、にこにこと楽しそうに笑う克己がいる。
 克己の元気な「こんにちは」を聞くことは二度とない――そう思うと、由利は急にこのベンチから離れたくなった。ぱっと瞼を開くと、冷たい木枯らしの中、急いで帰り支度をした。
 ベンチを立って、去り際に振り返ってみる。
 そこにはスケッチに集中する由利と、楽しそうにおしゃべりをする克己の姿が見えた。
 由利は立ち止まって、慌ててスケッチブックを取り出した。
 克己の澄み切った笑顔。秋の爽やかな空。ベンチの下に散らばった、色づいた銀杏の葉。
 あっという間にそれらを描き切って、由利は思った。
 ――もうここに来るのは止そう。
 それからスケッチブックをじっと見た。もう少しきちんとした絵に仕上げて、克己の両親にプレゼントしようと思った。
 由利は銀杏並木の下を通って、ぼんやりと考えながら帰途につく。
 ――この悲しみも、いつか薄れると思う。でも、君のいないベンチを見るたびに、きっと君と、この秋の空を思い出すよ……。
 由利は空を仰ぎ見て、心の中で呟いた。克己の笑顔が空いっぱいに広がって、吸い込まれるように消えた。

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