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《時代とシンクロした水島マンガ》 月産450枚!? 水島新司の「最盛期」はいつか?

 1977年9月3日、この日は日本の野球が「世界一」をつかんだ記念日だ。読売ジャイアンツ対ヤクルトスワローズ23回戦、午後7時10分6秒、この日の2打席目に立った王貞治は鈴木康二朗のど真ん中のシンカーをライトスタンドへ。メジャーリーグ記録を抜く756号を達成した瞬間だ。後日、この偉業が称えられ、当時の福田赳夫首相から初の国民栄誉賞も授与されている。野球が娯楽の王様だった時代、その「プロ野球絶対王朝」の最盛期として77年シーズンをあげる人は少なくない。

 なぜこの話を持ち出したかといえば、水島新司の最盛期もまた77年、38歳の頃ではないか、と思うからだ。もちろん、作品の面白さなどは読者ひとりひとりで異なるだろうが、それでも77年の水島新司は質量ともに神がかっていた、といって大げさではない。
 まずは量について。この年の連載作品の顔ぶれがただただすごい。『ドカベン』(6年目)、『野球狂の詩』(6年目、この年で連載終了)、『あぶさん』(5年目)、『球道くん』(2年目)、『一球さん』(3年目、この年で連載終了)。さらに、『週刊少年サンデー』の元編集部員で、のちに野球ライターの第一人者となる永谷脩とともに野球漫画専門誌『一球入魂』を創刊。責任編集長まで務め、この雑誌上で『白球の詩』の連載を開始している。
 水島によれば、この「量」こそが自身の作品パワーの源になっている、とこんなコメントを残している。

『ドカベン』の全盛の頃は四百五十枚ぐらいは描きました(筆者注:月産)。連載中の六年間(昭和四十八年〜五十四年)、毎日三時間しか寝なかったですから。というより寝たくなかったですね。僕は漫画家に一番大事なのは勢いじゃないかと思います。筆の勢いがイコール情熱になるわけで(中略)私の師匠である花登筺先生(故人)が、「力作は量産から生まれる」と言われたんです。でも、僕がそれまで先輩に聞いていたのは、「量産は駄作しか生まない」という逆説でした。つまりまったく違うんですね。でも花登先生の場合は、本当に量を書いて、それがことごとくヒットしたでしょう。だから花登先生の方が説得力がありましたから。実際に描いてみますと、やっぱり才能のない人は量を描けないんです(『月刊経営塾』95年10月号)

 また、質という意味でも、77年説を唱えるファンは多い。ドカベンシリーズ史上最高試合、との呼び声が高い2年春のセンバツ決勝戦「明訓vs土佐丸」戦が描かれたのも1977年(それゆえ、この戦いが収録された『ドカベン31』巻を水島マンガ最高傑作説、とする読者も多い)。王がバットで天下を獲った年に、水島はペンで野球漫画界の天下を獲っていたのだ。


 さらに、この77年は『ドカベン』と『野球狂の詩』が揃って実写映画化。しかも、両作品で“役者・水島新司”として出演まで果たしていて、TV-CMにも出演。テレビをつければ『ドカベン』と『野球狂の詩』のアニメも流れていた(ともにフジテレビ系)。


 そんなドカベン人気に押されるように、『週刊少年チャンピオン』の人気も最盛期に。1977年に全国大学生協連が東大をはじめとする26大学、約5千人を対象に調査した「学生の生活実態」で、《よく買う、またはよく読む本》のナンバー・ワンは秋田書店発行の『少年チャンピオン』だった。
 では、アイデアの源泉はどこにあったのか? 

たとえば銀座の飲み屋で三軒ほど僕のツケで、南海の選手はタダという店を作ったり、南海が東京のゲームで勝った時に、「あぶさん賞」とか「鉄五郎賞」とか勝手に作りまして、活躍した選手に五万円を分けて渡したりしてました。ま、南海はそんなに勝たなかったから、ハハハ(『週刊文春』88年11月24日号)

 水島新司は酒が飲めないのにもかかわらず、昭和51年と52年の2年間、毎月のように200万円の飲み代を支払っていたというから、いかにこの飲み屋が情報入手の場になっていたかがうかがえる。それが成り立ったのは、この時期、水島が漫画家生活のなかでももっとも稼いでいた時期だったから、というのは本人も認めている。
 恐れ入るのは、これだけ創作活動に時間をかけながら、年間で何十試合も草野球に励んでいたこと。まさに「野球狂」とは水島新司本人のこと
 これから水島漫画を読んでみたい、久しぶりに読んでみたい、という方には、ぜひ1977年前後の作品をお勧めしたい。描いて描いて、描きまくったからこそ到達した日本野球のもうひとつの真髄がそこにはあるはずだ。

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70年代のプロ野球、高校野球の出来事で、先に水島野球マンガが描いていた予言的なエピソードを紹介します。

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