僕のインディアンソース物語
再会
あの忌まわしい台風15号(令和元年房総半島台風)により、東口の店舗の屋根が吹き飛んで、そして辿り着いた「人参湯」この場所から新たな物語が始まった。
移転して間もなく、近所のじいちゃんがやってきた。僕の焼きそばを食べながら
「おめぇーインディアンソースって知ってっか?」
「知ってますよ!幻となったカギサ醤油のソースですよね。」
昔話にでもなるんだろうと思っていた。僕は木更津は馬来田という土地で生まれ、富津は青堀で育った。
インディアンソースはそんな青堀にあったカギサ醤油が今から約100年前に開発したウスターソースだ。
当時、カギサ醤油の工場に忍び込んだり、その周りを遊び場にしてた僕には、体の芯まであの独特の香りが浸み込んでいる。そんな僕が知らない訳がない。
僕がそんなインディアンソース愛をじいちゃんに語っているとじいちゃんは言った。
「うちにあんだよ。いっかぁ~?欲しけりゃぁ、おめぇーにやんぞぉ~!今かん持ってくっんよぉー」
それは紛れもないカギサ醤油のインディアンソースだった。涙が出るくらいの感動だった・・・・
回想
平成19年7月の朝。僕は焼きそば屋を始めようと決心した。細かいことはまたいつか書くとして、その時既に、カギサ醤油は廃業し、4年の歳月が過ぎていた。そしてインディアンソースは市場から消えていた。
焼きそば屋を始めて暫くすると、インディアンソースの焼きそば食べたいねーって話がよく聞かれた。
僕が育った青堀に、リヤカーに屋台を乗っけて自転車で引っ張って焼きそばを売りに来るじいちゃんがいた。僕がリヤカー屋台で焼きそば屋を始めたのも、このじいちゃんを真似たものだった。
あの焼きそばにインディアンソースを使っていたのは知っていたし、それは僕の魂に刻み込まれていた。
そこからそんなお客さん達と色々なソースを混ぜてみたり、お客さんが持ち込んできた江戸チドリのウスターソースでインディアンソース風なんてやってみたけど、パっとしないまま終わった・・・
試食
じいちゃんが持ってきた、それは紛れもないインディアンソースで、焼きそばを焼いた。あの香がする。何とも言えない独特の香り、鼻にツーンと来るあの感じ。記憶に溢れ出すカギサ醤油の情景、食卓にあったインディアンソース。
20数年倉庫に放置されたらしいから、どことなくプラスチックくさい感じもしないでもないが、そんなことよりも喜びが大きかった。
そしてじいちゃんから3本もらった。その後、じいちゃんが仲間を連れてきて試食会をしたりもした。
何かイベントを企もうなんて思いもあったが、コロナ禍真っ只中だったり、この再会だけで満足していたり、ソースそのものがもったいなかったり、残りの2本のインディアンソースはうちの冷蔵庫に大事にしまったままだ。
運命
焼きそば屋を始めてから色々あった・・・
リーマンショック、東日本大震災、令和元年房総半島台風・・・
世は乱れ、時代は流れ・・・
世界が新型コロナウィルスに混迷を極めていた真っ只中だった。
焼きそば屋16年目のある春の日だった。
僕の目の前に突然インディアンソースは現れた。
「このソースでちょっと焼きそばを焼いてもらえませんか?」
一瞬何が起こったのか?なにやら不思議な感覚が身を包んでいた。そんな中で、ここまでの経緯を聞いた。
カギサ醤油が廃業し、その土地売却に携わったのが木更津にある株式会社ケンソーさん。その時、インディアンソースのレシピも貰い受けてということだった。そのオリジナルレシピで作られたのが「復刻インディアンソース」だった。
そこでケンソーさんの関連会社である、完全無農薬野菜を研究している株式会社アフリットの農学博士松本さんが、ここに持ち込んできたという訳だ。
僕のインディアンソース愛をなんて全く知らないのに、ただ、焼きそば屋だと知っていただけで、それはここへ持ち込まれ、そして僕に、試しにこれで焼きそばを焼いてくれ!と依頼されている・・・
運命なんて信じない僕が運命を信じたくなった瞬間だった。
時光
あれからちょうど1年・・今年はカギサ醤油がインディアンソースを開発して100周年のメモリアル・イヤー。諸説あるが日本最初のウスターソースがインディアンソースだ。
当時宮内庁御用達だった幻のソース、インディアンソースが、ケンソーの重田社長をはじめ、アフリットの松本さんによって蘇ったのだった。
序章
新たなインディアンソースの物語が始った。
そこは廃屋の銭湯「人参湯」木更津焼きそば
さぁさぁ皆様、どうか僕の夢の続きにお付き合い下さい。
昭和ロマンの向こう側へ・・・