見出し画像

ただの、ある幸せな家族の絵

スーパーに買い出しに行く。最近はまっているラーメンの通販が朝一に来たので、そのトッピングを手に入れるのだ。

ちゃんとしたスーパーは今住んでいる実家から遠く、歩いてもいいがせっかくの休日である。体力と時間を費やしてを散歩するのは割に合わないから、昨年買い替えた車で行くことにした。

車はリーズナブルな方だったが、スポーツカーではあるし、ホイールも替えていて愛着は勿論ある。短いドライブを終えてスーパーの駐車場に入ると、土曜日だけあってそこそこの混み様である。空いているところを探すと、同じ車種で、しかも色まで同じ車が停まっているのが目に入った。

なんとなくスペース的に都合がよく、同じ駐車場で同じ車種、色まで、というのは経験になく、隣に停めることにした。車を停めて外に出ると、その車は少しばかり土埃や鳥の糞で汚れていたが、自車と同じMTであったりと、すごいなあと口に出したような出していないような間を挟みつつ、さっさとスーパーに向かった。

いろいろ横着し、ちょうどよい量のキャベツがないからもやしで、とか、ほどよい数の味玉子がないからまあいいか、などして、駐車場に戻って来た。自車の方を見ると、隣の車の辺りには小学校低学年か中学年ぐらいの男の子と、ちょっとファンキーなお父さんとお母さんがいた。男の子は助手席に乗って窓に手をつきながら目を見開いて私の車を見ていて、お父さんお母さんは笑顔で楽しそうに話していた。

絵に描いたようであった。自分は何だか恥ずかしくなって、隣の車の準備ができるよりも早く駐車場を出た。

はっきりさせたいのは、所帯持ちイズベスト的価値観でこれを書いているのではなく、本当に、ただ一瞬、その光景が絵のようであったからである。どんなに世界で戦争が起きようが、物騒な事件が世間を騒がせようが、目に見える幸せがそこにあったのである。

人間は生物なのであるが、一般的に生物は生き延びること、子孫を残すことに全力を注ぐ。今の自分は所帯を持つとか、結婚するとか、そういったことに所謂プレッシャーを感じる状態にないが、今日の光景がそう感じさせたのだとすると、これも生物として歩んできた人類の為せる作用なのかと思う。

私と言えば、日々無駄にいろいろなことを考えて、現代的価値観に基づいて幸せな状態にあるとされかねないが、まあそれなりに複雑な心持ちで、ぐるんぐるんである。今年の秋ぐらいにまたお会いできればと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?