日本、伝統、博論:篠原一男の奇妙な英文テキスト
篠原一男が英語だけで発表した、あんまり知られていない3つのテキストがある。
篠原による言説は主に『篠原一男』(TOTO出版、1996)と『アフォリズム・篠原一男の空間言説』(鹿島出版会、2004)に掲載されているリストにまとめられている。もちろんここには掲載されていないもの、あえて言えば篠原が「認知」しなかったやつがまあまあいるんだけど、だとしても「認知」したものたちが決定版かというとそうは問屋が卸さない。この数年間、研究を進めるにあたってこのリストをめぐって散々悩まされてきているんだが、まあ愚痴はさておき、これまで触れられたことのなさそうなことがわかったので書き残しておきたいと思う、別にこれは論文にならなそうだし。
さて、文献リストを眺めるとなかには英文テキストが見受けられる。例えば「The Three Primary Spaces」、これは『the Japan Architect』誌(以下『JA』)に「A House with a Large Roof」と「A House with an Earthen Floor」を発表した号に掲載されたもので、これは『新建築』(1964年4月)で「大屋根の家」「土間の家」を発表した際に掲載された「3つの原空間」の英訳版である。そもそも『JA』は『新建築』の国際版であることを考えると、概ねリストにある英題の文章は日本で行われた雑誌での作品発表(に付随するテキスト)の翻訳版と考えて間違いなさそうだ。
ただ、以下の3つのテキストは、翻訳元に相当するものが見当たらない。
・「Jodo-do at the Jodo-ji」
・「The Ko-no-ma of the Nishi-Hongan-ji」
・「The Japanese conception of space」
どれも『JA』の1964年6月号に掲載されている、とある。
そこで該当号を見てみると、これは「Nature, Space and Japanese Architectural Style」と題した日本建築の特集号になっていて、3つのテキストはどれも特集の一部であることがわかる。実際にテキストを読んでみると、それぞれ浄土寺浄土堂、西本願寺の鴻の間、そしてタイトルにないが最後のものは慈光院の書院について論じていて、大判の写真とともに伝統建築を紹介するものだった。
『JA』は単に『新建築』の翻訳版というだけでなく、編集部がある程度独立して動いていたようで、『新建築』にない特集号は意外とある。篠原の特集号も1979年に出版されていて、これは『新建築』にはない独自の号である(むしろ同年の『SD』特集号の簡易版という趣がある)。特に1964年のこの特集号が組まれたことには、同年のオリンピックという背景も窺えよう。目次を見ても結構力が入っているようで、特集タイトルにあるように「Nature」「Space」「Style」と論者それぞれの視点で伝統建築や日本建築の紹介をしている。
では、なぜ篠原がこの特集号で上の3つのテキストを書いているのか。そしてこれらのテキストは篠原にとってどのような意味があるのか。
端的には、これらは篠原の博論の副産物と言える。篠原は1967年に『日本建築の空間構成の研究』で博士号を取得しているが、これは1957年から1964年までに断続的に発表された、「日本建築の方法」と題した一連の学会発表論文を基にしている。これらは部分的に、一つ目の「住宅論」(『新建築』1960年4月、「住宅論」はもう一つあって二つ目は『新建築』1967年7月掲載)にその基本的なアイデアが展開されている。『JA』の3つのテキストを読んだときに、真っ先にこのテキストが浮かんだ。しかし再建された金閣と民家について触れているのみで、伝統的な社寺仏閣を特に論じるものではない。
ではオリジナルはどれか。というところで数年間止まっていたのだけれど、昨日友人と色々と連絡している中で『住宅建築』(紀伊國屋書店、1964年)の話になって、ふと閃いて確認してみたらビンゴだった。3つのテキストはそれぞれこの本で書かれている浄土寺、西本願寺、慈光院の記述と論旨、構成ともに原則同じだ。具体的には、慈光院が第1章2節「空間の論理」冒頭、浄土寺が5節「日本の造形」冒頭、そして西本願寺は飛んで第3章2節「装飾空間」にある記述から抜粋、翻訳されたものらしい。
これら3つの対象のチョイスは、本人が書いているように好みだろう。あるいは『住宅建築』を読んだ『JA』編集部がリクエストしたものかもしれない。西本願寺は「装飾空間」だけれども、「3つの原空間」にそれぞれ対応しているというわけでもない。ちなみに篠原が「装飾空間」を論じている文章では「装飾空間のための覚え書き」(『新建築』1963年11月)もあるが、これは日光東照宮から論を展開しているが西本願寺に触れていない。となると、やはり西本願寺については、その翌年2月に出版された『住宅建築』で新たに書かれたものと推察できる。
付言すれば『住宅建築』は、篠原が研究室を持ち、朝倉摂との二人展を開催するなど、篠原のキャリアの中で最初のピークをなす1964年に出版された書き下ろしで、これは読むたびになんて説明的で肩の力の程よく抜けた分かりやすい文章なんだろうと驚かされる。まあもちろん全然普通の水準では難解なテキストなわけだけど。でも『住宅建築』は結構中古市場で安く手に入るのでぜひ買ってみてください。1994年に復刻されていて、こちらはなぜか高くついている。内容は図版が少しだけ違うけど一緒と思ってよい。
篠原の博論はこうした商業誌へのテキストや書籍の内容と、テーマを共有しつつもやはり論文ベース(調?体?)で書かれていると言ってよい。京都、奈良の伝統建築の美しさに魅了されて数学を辞めて建築に転向した篠原にとって、日本と伝統というテーマは原風景と言える。その建築作品への直接的な翻案、表現は第一の様式、で辞めてしまっているけれど、博士論文という形でこの興味はある一つの結論を見ていると考えたい。篠原が日本の風土や伝統に向けた眼差しには、意匠の学術研究を成立させようという意気込みさえ感じられる。さて、これは蛮勇だったのだろうか。
篠原のテキストは多くの場合、作品発表に際して書かれてて、例えばSD選書の『住宅論』『続住宅論』はそれらの集成で成り立っているわけだけれど、『新建築』などの建築専門誌だけでなく、60年代に限っては婦人誌やインテリア誌にまで記事を出している。こうした文章もよく読んでみるとまあ確かにとても重要というわけではないけれどそれなりには面白く、英語だと説明に手間取るのがもどかしい。
もちろん、そもそも篠原の作品発表が全て翻訳されているわけではないし、『新建築』に掲載された言説でさえ『JA』に全て掲載されたわけでもない。例えば重要なものでは、「第3の様式」(『新建築』1977年1月)などが『JA』になく、どうやったら日本語を解さない人が「様式」を理解できるのか、、と悩まないこともない。一つ目の「住宅論」も「伝統は創作の出発点でありえても、回帰点ではない」と重要な言葉がありながら英訳されていない。
逆に、対談なども含めれば、晩年のハンス・ウルリッヒ・オブリストによるインタビューなど、外国のメディアで生み出された英語ベースの資料もある。そしてこれらのテキスト群は、言語を横断(横断も篠原を読み解くキーワードの一つですね)して総体的に把握されなければならない。なぜならば自分の博論の対象が篠原だから、、、以上、体裁整えて寄稿してくださいみたいなリクエスト、あれば待ってます笑。
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