賢治2

高瀬露さん(2)~宮沢賢治が残した詩の謎

前回は賢治さんに一途に恋をした女性、高瀬露さんについてお話しました。今回はこの露さんがモデルとなっているのではないかと言われている詩について、考えてみようと思います。

不穏な言葉が並ぶ詩

この詩には題名がつけられておらず、一般には最初の一行をとって「聖女のさまして近づくもの」と呼ばれています。短い詩なので引用してしまいましょう。

【聖女のさましてちかづけるもの】

聖女のさましてちかづけるもの/たくらみすべてならずとて/いまわが像釘うつとも/乞ひて弟子の礼とれる/いま名の故に足をもて/われに土をば送るとも/わがとり来しは/ただひとすじのみちなれや

なかなか不穏な詩ですね(笑)
聖女のさまして・・・つまり聖女のふりをして近づくものですね。
確かに『聖女のふりをして近づきながら、たくらみを持っている』という。ここにある『ならず』とは、ならずものなどに使われる意味でしょう。まぁ、ネガティブな意味ですね。わが像・・・自分をかたどった像という事でしょうか、それに釘をうちつつも弟子になりたいという。この詩が誰か実在の人物をモデルにしているというのでしたら、相当な腹立ちの中で書いた事が伺えます。救いは、最後に「自分が取るのは、自分の唯一つの道だけだ」と力強く歌っている点でしょうか。

露さんがクリスチャンだったという事もあり、この詩に出てくる聖女を露さんだとする説があるそうです。そして、それが故に露さんを賢治に迷惑をかけた悪女とする説もあるのだとか。

個人的には、この『露さん悪女説』には面食らいましたね。
露さんだって、自分が受け入れられないと思ったら身を引きましたし。
それでもあきらめきれずに、一途に思い続けた女性だというのに、なぜ悪者なのか、と。
とはいえこの詩のモデルは、露さんである可能性は非常に高いと言えそうです。

家族と練り上げた詩・一人でそっと書いた詩

この詩のモデルが露さんだという事を考える前に、賢治さんの詩の分類についてお話しておきたいと思います。賢治さんの詩には、おおざっぱに二種類に分けられます。
一つは、「人に読ませることを前提に書いたもの」
そしてもう一つは「誰にも読ませるつもりもなく、日記のように手帳に書きつけたもの」です。

賢治さんは晩年(と言っても、35歳~37歳という若さだったのですが。)
病床から起き上れることが出来ませんでした。前回書いた農民支援の行動で、雨の中を農業指導に奔走したことが原因で肺を患ったのです。一時は小康を保つものの、35歳で再発。その後完治する事はありませんでした。

そんな病床の中でも、賢治さんは旺盛な創作意欲を見せます。私たちが今日読んでいるあの美しい物語「銀河鉄道の夜」などはこの時期に練り上げられました。多くの詩も書きます。過去に書いた詩を文語体に手直ししたりもします。そして、そんな長兄の創作意欲を支えたのは弟、妹といった家族たちでした。童話の推敲の相談にのり、詩の清書をします。・・・賢治さん、文字は決してうまいわけでは無かったので(笑)

そうして、家族に見守られながら練り上げられ、最終稿として残った詩が多くありますが。それとは別に、家族もその存在さえ知らない手帳に書きつけた日記ともメモとも分からないものがありました。
有名な「雨ニモ負ケズ」などもその一つです。
そして、この聖女のさままして近づけるものもまた、そういった手帳に書きつけられたものの一つでした。つまりこの詩は、賢治さんは誰にも見せるつもりは無かったのですね。

(写真はフリー素材ですが、実際の手帳も写真のような黒いカバーのものでした)

6年ほどのブランクの中で、何があったのか

ところで、この聖女のさましてちかづけるものが書かれたのは賢治さんが亡くなる一年ほど前のようです。あの「雨ニモ負ケズ」が書かれた少し前だったようですね。同じ手帳に書かれています。露さんと最後に会ったのは、賢治さんが30歳くらいのころ。6年ほどのブランクがあります。
その後、露さんに結婚の話が持ち上がった時に、相談の手紙を出した事は前回お話しました。その相談の手紙への返事の下書きが残されています。その下書きでは、兄が年の離れた妹へ諭すような、優しい言葉遣いで語りかけています。
この手紙は具体的な日付は不明ですが。
手紙の内容に最近肺を病みはじめた事が書いてあります。ということは、農民支援活動で倒れてすぐくらいの時期だと言えるでしょう。この後再発しますが、「病みはじめ」というのは大きなポイントとなるかと思います。また、露さんの年齢を考えても、周りが結婚を進めるのはそう時間がたってからとは思えないことも推測されます。賢治さんと出会ったのが20代半ば。賢治さんが倒れたのがその約二年後。結婚年齢が今より早かった当時としては、20代後半の露さんを心配して周囲が縁談を進めるのも無理のない話かと思います。そうすると、結婚の相談の手紙は、だいたい賢治さんが33歳から34歳くらいだと言えるでしょう。
ところで、この悪女のさまして近づけるものという詩が書かれたのは賢治さんがさらに病気を再発して臥せった時期。
つまり、36歳くらいと考えられます。兄のように優しく諭したのに、数年後に悪者にしたような詩を(誰にも見せ津つもりは無いとはいえ)書きつけるものでしょうか?

賢治さんと露さん、二人の関係をまとめると・・・

この2人の関係を整理すると、・賢治さん30歳、露さんが急接近→半年ほどで露さんは拒絶されて賢治さんから離れる→・2,3年後、露さんに結婚話が持ち上がる→・賢治さん諦めきれない露さん、賢治さんに相談の手紙を書く(暗にまだ好意がある事をほのめかす)→・賢治さん、その気持ちは受け取れないと優しく諭す→・さらにその3年後ほどに『聖女のさましてちかづけるもの』がかかれる

ということになります。

あれ?と思いますよね。最後に手紙を交わしてから、さらに3年もたっているならば、この詩に書かれている聖女って露さんじゃないんじゃない?と。私も初めはそう思いました。しかし、三年後、露さんには全く責任のないところで、ある事が起こっていたのです。

次回は、賢治さんが残した手紙の下書きから、この謎を探ってみようと思います。

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