賢治2

高瀬露さん(3)~賢治が残した手紙の下書き

宮沢賢治が晩年に手帳にこっそり残した詩編(というか日記代わりのメモ?)にある『聖女のさまして近づくもの』これは本当に高瀬露さんがモデルであったのでしょうか。賢治さんがある人物に残した手紙の下書きから、そのことを探ってみようと思います。

一通の手紙の下書きから見えて来るもの

前回も書きましたが。この聖女のさましてという詩が書かれたのは、賢治さんが露さんと最後に会ってから6年も経っています。最後に手紙を交わしてからも3年ほど。私は初め、この疑問からこの詩編は露さんがモデルではないと考えていました。聖女は賢治さんお得意の比喩ではないかと。

しかし、ある人物に当てた手紙の下書きを見て、その考えが変わりました。

心無い手紙・・・

ある手紙の下書きに、露さんの名が出てくるものがあります。(書かれた時期については、後で述べます。)その手紙には、賢治さんらしく宗教・信仰への真摯な想いがつづられています。・・・というのはソフトな表現すぎるかもしれません。この手紙で賢治さんは、ひどく怒っています。返事の下書きの内容から察するに、『あなたの病気は、親不孝が原因だ。また、女性関係の乱れの噂も聞いている』と書かれた模様。あれだけ清廉に生きた人がこのような非難を受けたなら、憤るのも無理はないでしょう。この手紙は中舘武左衛門という人物。賢治さんが30歳のころ(教師を辞めて、農民指導を始めたころ)に一度賢治さんを訪れているようです。この中舘氏もまた熱心な宗教家であったようで、新しい宗教の在り方、腐敗のない宗教の在り方を目指していたようですが・・・。どうもその後の賢治さんを訪ねるということもなく、噂などから邪推した手紙を送った模様です。

賢治、怒りの反論

この中舘氏への返信の下書きは、普段の賢治さんからでは考えられないほど強い調子で書かれています。中館氏からの手紙への反論と同時に、噂話(噂と言うよりは、中館氏は聞き込みをしたようです。)などに惑わされる事への批判、身の潔白の強調など。何せ、文末を「妄言多謝」(いい加減な事ばかり言ってくれて有難うくらいの意味ですね。要するに皮肉です。)とまで書いているのですから、相当にカチンと来たのでしょう。当然と言えば当然ですが。

先に述べたように、この下書きに露さんの名前が出てきています。中館氏が指摘した女性関係の乱れに対しての憤然とした抗議です。『旧姓高瀬露女史に関しては、他の客人と変わらない対応をした』という内容。(太字部分筆者)あえて旧姓を強調した辺りに、賢治さんのやりきれない想いが感じられると思います。

推敲に残る迷いのあと

つまり賢治さん、この中舘氏の心無い手紙に憤り、やり場のない怒りを詩にしたのではないでしょうか。聖女のさまして近づくものの聖女とは、露さんであったとしても。この詩編を書かせたのは、中館氏からの手紙がきっかけであり、賢治さん自身が露さんを厭わしく思っていたわけでは無いでしょう。この詩、たくらみすべてならずとてというところのたくらみは、最初は悪心という言葉で表現されていました。怒りの勢いに任せて書いてみて『いやいや、誰にも見せないと言ってもこれではあまりにもひどく言いすぎだ』と思ったのではないかと。賢治さんの迷いの後を感じるのですが、いかがでしょう。

この詩が出来るまでの過程を整理すると・・・

改めて、この詩が書かれるまでの経緯をまとめてみたいと思います。

・賢治さんと露さん、互いに教員として面識を持つ→・露さん宅が、たまたま農民指導のため独居生活に入った賢治さんの近くだった→・知人のよしみで慣れない家事を手伝う(この時点で露さんが恋愛感情を抱いていたかは不明)→・露さん、賢治さんに恋い焦がれるようになる。賢治さんはその想いを拒絶→・露さん、賢治さんから離れる→・数年後、露さんに結婚話が持ち上がる。賢治さんを諦めきれない露さん、相談の手紙(暗に賢治さんへの恋心を伝えた恋文だともいえる)を出す→・賢治さん、自分を諦めるように優しく諭す→・露さん、結婚。

ここまでは年頃の男女に起こりがちなお話だったはずです。しかしその後

・中館氏から批判の手紙が来る(しかも病床に)→・やりきれない思いを詩という形で手帳に書きつける(聖母のさまして・・・)→・それでも怒りが収まらなかったため、中館氏への抗議の返信を書く

という流れなのではないかと思います。だとすると、露さん悪女説は完全に濡れぎぬということになりますよね。

さらに検証が必要な点

ただ、この仮説に関しては以下の点で検証が必要だと言えそうです。まず、詩が書かれた時期と返信の時期。中館氏への返信が書かれたのが、昭和7年と推測されます。この手紙の下書きは日付はついていても年数がついていないために内容から推測するしか書ないのですね。(満州事変が起こったと書かれている。去年は肺を病んだと書かれている。この二点から昭和7年と推測されます。)日付は6月22日。そして聖女のさましての詩編が書かれたのは前年の10月24日。実に8か月もの時期の差があります。普通に考えると、時間が空きすぎている気がします。とはいえ、この時期賢治さんは死線をさまようほど衰弱した体であり、怒りの手紙が書けるほど回復するのに時間がかかったという事も考えられるでしょう。この点は、中館氏からの手紙がいつ来たのかなどの研究と合わせて、もう少し詳しく調べてゆこうと思います。


余談~その後の露さん

なお、中館氏への手紙でもあえて『旧姓高瀬露女史』と書いたように露さんはその後結婚、その結婚生活は子宝にも恵まれた幸せなものだったようです。賢治さんの露さんの態度にかんしては、農業指導で独居生活をしていた時代とその後の手紙の温度差に注目したいところです。独居生活時代、露さんからの想いがだんだんと負担になっていった賢治さん。それでも露さんは肥料勉強会などで集まっていた賢治さんとそれを慕う若者たちに、手作りのカレーライスを振舞ったそうです。しかしそれに対して「俺は食べる資格がないから」と皆の前で断ったのだとか。資格がない。つまり、露さんからの愛情を受け入れるつもりがないのに手料理まで受け取っては申し訳ない。と言う事でしょう。賢治さんらしい潔癖な態度ですが、いささか女心への配慮に欠けているかと。

しかしその数年後の手紙では、本当に暖かな言葉遣いで、自分を諦めるように諭しています。露さんの恋心を、きちんと受け止めたうえでの拒絶です。それまでは病気だ何だと、女性の好意から逃げていた賢治青年。しかし、露さんと疎遠になった後、それまでの独身主義を覆すほど魅力的な女性に出会います。おそらく、その直後に病で倒れなければ結婚していたでしょう。19歳の初恋以降、女性への好意を封印していた賢治さん。しかし自分が他の女性への恋心を抱くようになってみて、露さんの想いを受け止められるようになります。露さんとしても拒絶されたとはいえ、自分の想いを理解してくれたからこそ、賢治さんを忘れる勇気が持てたのではないでしょうか。宮沢賢治という人の一番の魅力は、こうして大人になってからも経験を通して人として成長を続けた向上心にもあると思っています。

何年も片思いした女性と、それに応えなかった男性。そんなありふれた恋物語がこんなに美しいのは、お互いが人として誠実であろうとしたからなのでしょうね。 

参考文献:『校本 宮沢賢治全集14巻/筑摩書房』

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