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関口安義著・評伝 松岡譲 の検証 2

前回から引き続き、関口安義著の評伝・松岡譲から特に『久米叩き』と取れる点に関して検証してゆく。

4)破船に書かれた『炬燵の中で筆子が久米の手を握った』という描写は嘘である。について

この圏に関して、筆子は絶対にやってないと言ったと言う。そして関口氏は『何かの拍子にちょっと手がふれあった程度なのだろう』と断言してしまう。エビデンスは『常識的に考えて』のみだ。ならば筆子が常識的な人物かを検証する必要がある。

しかしその前に、この件に対する関口氏の記述で不当と思われる点を指摘したい。まず、この『炬燵の中で筆子(作中は冬子)に手を握られ、久米も(作中での小野)試しに握り返した』という描写に3ページ使っているという点を激しく非難している点だ。これが、それほどまでに非難されることだろうか。現代とは性倫理が違うとはいえ、25歳の男性が19歳の女性にそっと手を握られて胸の高まりを覚えるという微笑ましいものだ。久米は筆子のこの行為を(事実であると仮定して)『少女の無邪気な好意の現れ』と受け取った。(そして芥川に注意されている。)この描写は筆子はコケティッシュ(すっかり死語だが、現在でいう男好きと言ったところか)と非難されてしまうが、久米にそんな意図は無かった。関口氏は久米がこの件に3ページ費やすのはドンファン的な性格だからだと断定しているが、それはずれている。久米が本当にドンファン的な性格をしているというのなら、手を握られた時点でもっと性的な行為に出るはずなのだ。破船作中で、筆子が漱石門下生の一人にキスされそうになった事があるという逸話が紹介されている。そういう話と比べると、久米の対応や感じ方はむしろ純情といえる。関口氏は、本来なら検証が必要な事柄を一切無視して筆子の言葉のみを全面的に肯定、「久米叩き」に使っている。こういう態度は学術の徒としていかがなものなのだろうかと思う。
  
次に、筆子が常識的な女性であったかだ。筆子が久米からの求婚を受け入れたのは諦めだったと同著内にある。『女子供だけになった夏目家には男手が必要で、自分が久米と結婚すれば家族の助けになると母に言われた』からだ。筆子の娘、半藤茉莉子氏の著書ではさらにあしざまに「最初から久米が嫌いだった」とまで言っていたと書いてある。。しかし内心はどうあれ、筆子が久米を婚約者として遇していた事実は変わらない。久米は筆子から手紙と二枚の写真(大正時代の写真であるからなかなかの貴重品である)、陶器の人形を貰っている。それは芥川も久米の部屋で見ており、当時の婚約者で後の妻になる飯塚文にこのことを書き送っているので間違いなく事実でるといえる。そしてもう一つ、重要な点。久米は一度、筆子との婚約解消を申し出ているのだ。この婚約期間中、久米を嫉んだのであろう何者かから、夏目家に久米を中傷する手紙が届いている。この婚約はただでさえ先輩門下生の反対にあい、鏡子未亡人に迷惑をかけていると感じていた久米は、いたたまれなくなる。これ以上夏目家にご迷惑をかける事は出来ないので、婚約を解消したいと、鏡子夫人に申し出る。それを隣室で聞いていた筆子は、大きな音を立ててピアノに突っ伏す。その音に気づいた未亡人が隣室とのふすまを開ける。筆子は『最初はお母さんに言われて仕方なく出したけど、今は久米さんが好きになりかけているのに、これでお別れ何て私は寂しい。』と言って泣くのである。この言葉には様々な情報が含まれているが、それは後に考察する。ここではとにかく筆子が久米からの婚約解消を泣いて嫌がったという事を記しておく。この件に関して関口氏は『乙女心の気まぐれ』とだけ書いているのだ。それは事実だったかもしれない。しかし、それで久米が筆子からの愛情を確信したのは無理のない事だ。この時にこれ幸いと別れていれば、それで済んだ話だっただろう。その後、筆子はやはり松岡が好きだという事で結婚する。憂鬱な愛人によれば、筆子(作中での澄子)が松岡に久米を悪く言ったのは、そのわずか数ヵ月後である。それでいて後に『最初から好きじゃなかった。泣いて引き留めたのは可哀想だったからで、一時の気まぐれだった』と言うのである。本来ならば、ここは反省するべきところだ。久米を引き回し、傷つけたのは誰か。しかし筆子は被害者ポジションを絶対に離れない。そういう品性の女性だったのだ。(そういう意味で、この婚約が破談になったのは久米にとっては幸運だったともいえる)こういった筆子の品性を考える時、筆子の言が嘘である可能性は高いと言わざる得ない。

また松岡が筆子との結婚を決意し実家の僧籍を破棄して帰って来たその夜に、鏡子夫人は松岡と筆子を同じ部屋に寝かせたそうだ。この、初めての夜の話を、松岡夫妻の次女は母から聞いたこととして書き記している。常識的に考えて、これは母が娘にする話ではない。つまり筆子は常識的な人物ではなかったのだ。

なお、この著書中に筆子が久米を嫌った理由について『キスしようとばかりしていた』『筆子の学友の名前を語って松岡を中傷する手紙を書いた』とあるが、これらも検証のしようが無い。ただ、手紙の件に関してはなぜ現物がないのか不思議だ。

・関口氏の筆子の証言を鵜呑みにする姿勢は疑問が残る。

・エビデンスが常識では論証として弱すぎる。

・そもそも、筆子は常識的な人物ではなかった。


5)久米は失恋直後、松岡謙に漱石の兄の娘との橋渡しを頼んだ。は事実であるはずがない


この件に関して、関口氏は『こういうことがあった』と書くだけでそれが筆子からの聞き取りなのか、そうだとしたらどういう形で筆子がそれを知ったのかなど、大切な情報を一切省いている。(そういう意味で、この評伝は作文の域を出ないのである)私は、3つほどの事例をもってこれに反論したい。まず、久米が松岡に送った抗議の手紙だ。おそらく筆子との婚約を知り憤慨した時のものだろう。しかしこれは何故か久米の手元にある。鏡子夫人から久米にあてられた封筒(中身無し)と共に。日付からして、この手紙は鏡子夫人から送り返されたとみて間違いないだろう。つまり二人は、筆子婚約後には対話する機会などなかったとみるのが正しい。夏目家の親戚との紹介を頼む時間など、この2人に合ったとは思えない。

もう一つの疑問は、松岡譲がこの件に触れていない点だ。松岡は久米に対して、作家として大幅な遅れをとり、生活レベルも各段に劣っていた。また前述の新聞記事の影響で友人間でも孤立する。ほとんど自業自得なのだが、松岡はその不幸をすべて久米のせいにして終生怨念を抱き続けた。自分の不幸は久米が破船を書いたせいにしてしまう。(こういう自らのエゴと相対できない弱さが、作家として大成しなかった最大の原因なのだが。)
久米の死後に刊行された『夏目家の印税帳』では延々と久米の悪口(こういう稚拙な表現がぴったりくるものだ。批判でさえない)を書いている。しかも、そのほとんどが主観か、事実を誇張したものばかりだ。これは後に検証する。その松岡が、この件については触れていないのである。もしこれが事実であるならば、久米を嘲笑する最大の材料として大幅にページを割いていたのではないだろうか。

最後の疑問は、関口氏の記述にある。同氏は久米が夏目家次女か親戚を松岡に紹介するように頼んだと述べ、その時の久米の気持ちを、久米の帰郷という小品の中から引用している。『一種勇者的(ヘロイック)な満足の中に思い諦める術もある』・・・しかし、帰郷には失恋の苦悩(というよりは、共に裏切られた苦悩の方が大きい)が書いてあるばかりで、夏目家の親族との紹介を松岡に頼んだという記述は欠片ほどもない。むしろ松岡と語り合おうと足掻く、久米の姿が浮き彫りにされる。やはり、久米は松岡にそんなことを頼み込む時間など無かったのだ。関口氏は、何のエビデンスも無くこのような事を書いているのである。

・松岡と筆子の成婚後、久米と松岡が話す機会はなかった。

・故に、久米が松岡に夏目家の親族との橋渡しを頼むということはあり得ない。

・関口氏の記述には、事実関係の確認できないものが多すぎる。

今回は、この著書に関して久米への批判に関する検証のみとした。次回は他の記述に関して考えてみたいと思う。

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