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久米正雄 破船事件を改めて問う

福島県郡山市に、こおりやま文学の森資料館と言う場所があります。文字通り、郡山市出身の文学者たちを紹介するもの。その中でも特に力を入れて紹介しているのが大正時代の作家、久米正雄。この文学館をきっかけに久米正雄を知り、その文学と人生に惹かれるものを感じています。それは表現することで心の傷を昇華させてゆくという、文学への姿勢への共感と敬意なのでしょう。
ところでこの久米正雄。近代文学史に少し詳しい人ならば夏目漱石の門下生であった事大をご存知かと思います。さらに学時代の親友、松岡譲と漱石の長女を巡って恋の火花を散らしたーという事も。この件は最近では久米が失恋の腹いせに松岡を悪者にした小説を発表したという事になっていますが、これは誤解です。今回はこの『恋愛事件』についてまとめてみようと思います。

事件のあらましと誤解

まず、この恋愛事件のあらましから。
・夏目漱石死後、女子供だけになった夏目家を心配した門下生たちが、交代で夏目家に泊まるようになる。久米もその一人。(漱石未亡人の鏡子が寂しがったという説もある。)

・夏目家に出入りしているうちに久米が夏目家長女、筆子に恋心を抱く。
・一時は婚約内諾まで話が進んだが、筆子は松岡に心変わり。久米は失恋。
と言うのが大まかに広まっている話でしょう。さらにそこに
・逆恨みした久米が本人が特定できるような内容の小説”破船”を発表した。

・そのために松岡譲が悪者になり、松岡は小説家として不遇をかこった。

という言説が多く見られます。中には『久米は夏目家の財産目当てだった』という批評家もいるようです。しかし、私は久米は財産目当てなどではなかった、と断言します。久米が破船を書いて発表したのは、松岡と筆子の結婚が成立してから4年も経ってからです。久米が本当に金目当てで筆子に近づいたとしたならば、すぐにでも破船を書いたでしょう。

事実は何だったのか

まず、破船のあらましを紹介しましょう。久米と思わしき青年(作中では小野)が、筆子と思わしき女性(作中では冬子)に炬燵の中で明らかに意図的に手を握られる。以前から冬子にほのかな恋心を抱いていたが、恩師のお嬢様だと遠慮していた小野。このことをきっかけに想いは徐々に燃え上がる。小野は冬子の母に娘さんをくださいと求婚。婚約は内諾したかに思えたが、冬子の母の怒りを買い破局する。
長い小説をすさまじく丸めてしまいましたが、ここは小説作品の紹介をするわけではないのでこれで良しとしましょう。

現代でも女性からこういう形で手を握られたら、たいていの男性はそこに好意を汲み取るでしょう。それでも久米は、恩師のお嬢様に恋心などとんでもない、と自制していました。しかしその後も久米が未亡人から借りた漱石の蝶ネクタイを筆子が結ぶ(それが三日連続)、家庭教師を頼まれ、言葉巧みに二人きりになるように持ってゆくなどが続きます。久米が筆子に恋心を燃やしても、それは当然すぎる事でした。しかし平成に入ってから、松岡と筆子の間に生まれた女性が『母から聞いたこと』として随筆に発表したことがあります。それは『若くして未亡人となった漱石夫人が、男手が欲しいがために娘を結婚させようとした』と言うものです。漱石夫人(以後、鏡子)はまず久米に目を付けます。筆子は両肩を母につかまれながら『あなたは久米正雄を結婚するのです。』と言われたそうです。つまり、筆子は母の傀儡となって久米を誘惑。久米は男の純情を利用された形となります。何もごく普通に見合いの席でも設ければよかった気がするのですが・・・天下の夏目家の長女が、たかだか門下生と見合いだなんて、鏡子のプライドは許さなかったのかもしれません。

現実にも久米は、鏡子に筆子さんを下さいと求婚。まんまと鏡子の策略に乗せられました。それに対する鏡子の回答が凄まじい。
『娘(筆子)が良いというのならば、結婚を許しても良い。』

鏡子は筆子には久米と結婚するように言い含めて誘惑させ、久米には娘の意思一つと言ってしまう。ちょっと首を傾げたくなる行動です。あくまでも『娘は強く求められたのだ』と言う形にしたかったのでしょうか。

なお、娘さんの手記では久米の求婚に対して鏡子が筆子に承諾するように言ったとありますが。それでは炬燵の中での手のひらの逢瀬の説明がつきません。鏡子の命令で筆子が久米の手を握ったのが、始まりと見て間違いないでしょう。

破局への道のりと、久米が着た濡れ衣

久米と筆子の婚約が内諾しましたが。やはり夏目家門下生で、久米の親友でもあった松岡譲に筆子の気持ちが移る。筆子の娘さんが母から聞いた話として書き残したものを読むと『追い詰められた筆子は、ハンストに走った(一週間も食事を絶ちやせ細り続けたとあります。)命がけの松岡への想いを知った鏡子は松岡への愛を認めた。松岡も受け入れた。』という内容の事が書かれています。松岡は新潟の寺社の長男で、大学を卒業したら帰郷して寺を継ぐ予定でした。しかし、筆子の気持ちを知らされた松岡は実家に訳を話して弟に僧籍を譲る。帰郷して松岡はその旨を鏡子と筆子に報告。鏡子は大喜びで(筆子ではなく、鏡子が喜んだとあります)その夜のうちに二人を同室に寝かせてしまった。という事です。(夫婦の性の話を娘にしてしまっただろう筆子には驚かされますが…)

久米との結婚話が進んでいながら筆子がやせ細るまでハンストに走って、松岡への愛を貫いた。時間的に考えても、松岡はすぐに行動にでたようです。一見美談ですが。これは久米と筆子の婚約が解消するより前に、筆子は松岡と結ばれていた事になります。一般に久米と筆子の破局の理由は、久米の軽率な行動にあるといわれていますが、それは久米への濡れ衣のようです。

破局の口実を待たれていた久米

久米の軽率な行動とは『久米と筆子がすでに結ばれたような内容の小説を発表した。それが鏡子夫人の怒りを買った』と言うもの。このことは事実として筆子の娘さんもまた、怒りをもった調子で書き残しています。しかし実のところ、それ以前から破局は始まっていました。
本当のことを話して婚約解消をしてしまえば、それで済んだはずです。単なる女性の心変わりという事にしておけば、そして筆子がそれに食事もとれないほどに悩んだというのならば、久米も納得したでしょう。しかしあくまでも破局の責任を久米に持ってゆきたかったのでしょうか。久米が隙を見せるまで、破局の話は出てきませんでした。しかも破船では、破局話が出る数日前まで冬子は『先日はいつもより早く帰ってしまって寂しい。(一緒に行こうと約束した)観劇にいけなかったけれど、これからそんな機会はたくさんある。』という内容の手紙を小野(つまり久米)に書いています。何とも恐ろしい話です。 (ちなみにこの手紙は、久米の親友の芥川が見ており、さらに当時の芥川の婚約者ー後の妻である文ーに書き送っていますので、事実と見て間違いないでしょう。)

久米が書いた小説とは? 

ところで破局の原因となった小説について。まず、雑誌社からの依頼にこたえて書いたものです。自己顕示欲からではありません。その内容ですが。この時期、夏目家の女中を筆子と間違えた男性から頻繁に恋文が来ることがあったそうです。その件をモデルにアレンジしたという他愛のないもの。普通ならば怒る必要などない・・・むしろ笑い話になるものです。しかし久米が邪魔だった鏡子はこの隙を逃がさなかった。非常に厳しく糾弾します。そして数日後に破談の宣告をする。もっとも鏡子は久米に小説を書かせたくなかった。この件以前にも、小説を書くこと自体を止められています。アンタの生活費くらいこっちが何とかするから、小説など書くな。当家のものがあんなくだらない小説を書かれたら恥にしかならない、と。鏡子の本音は、娘婿に漱石の印税管理や映像化に関する事務仕事をさせたかったというものでした。それは、松岡夫妻の娘さんの手記にもはっきりと書かれています。(事実、松岡も結婚後に鏡子から執筆を止められています。)どんな小説を書いたかと言うよりは久米が小説を書き続けること自体が気に入らなかった。しかし、久米は果敢にも鏡子に立ち向かいます。僕はそれでも書きたいのです、今は下らないものしか書けないかもしれません。が、書きながら成長したいのですーと。

鏡子はこれで相当に怒ったようです。鏡子が欲しかったのは自分の手下のように働く子分のような存在でした。(これもまた、松岡の娘さんがそのようだ、と明言しています)鏡子は久米と接するうちに、自分の思い通りに動く男では無い事に気づいたのでしょう。それに比べると松岡は扱いやすかった。事実、松岡は鏡子にとっては何でも言うことを聞く理想の娘婿だったようです。ちなみに、久米への鏡子の最後の言葉が凄い。『この件はなるべく小説に書くな。お互いにいろいろ迷惑する』というもの。(太線筆者)お互いに、という事で相手に罪悪感を持たせる。心理操作の高等テクを使っています。さらに続く言葉『これからは人にかれこれ言われないような立派な人間になれ。今までのままでとても駄目だ。』ダメ押しのように罪悪感をを植え付け続けます。

つまり久米は、鏡子から娘を使って誘惑され、自分の思い通りに動かないと分かると難癖をつけて放り出され、更に人格を貶められた。しかも鏡子はこの時にあえて松岡を同席させている。久米は(陰で裏切っていた)親友の前でこれらの事を言われたのです。当時20代の青年だった久米には相当な試練だったでしょう。この件で久米は夏目家に出入りできなくなる。漱石の命日には家族と鉢合わないようにと、日が暮れてから墓参りをしたこともあるそうです。

疑問が残る松岡の行動・随筆

ここで疑問が残るのは、松岡の行動です。久米は夏目家と破局した直後に、松岡が筆子と結婚することを知ったようです。親友としては、いつから関係があったのかと苦しむのは当然でしょう。その旨を書いた手紙を送ってもいます(下写真)が、その手紙は今、なぜか久米側に残されています。中が空の鏡子夫人からの封筒と共に。この手紙を松岡が読んだかどうかは確かめようもありませんが。しかしやはり親友同士ならばせめて訳を話しておけばよかったのに、と思わずにいられません。松岡が鏡子夫人の意図を知っていたかどうかはともかく。筆子の心変わりがあり、その心変わりに筆子もそれに苦しんでいた―という話をすれば、久米も納得したかと思います。しかし松岡は本当に黙って筆子と結婚したようです。二人と同じ大学の同級生だった芥川龍之介はこの件が不快だったのか、招待された松岡の結婚式への参加を断っています。同じく大学時代からの同級生であった人物に菊池寛がいます。この菊池が作った文芸春秋には、久米と芥川は常連で記事を依頼されていましたが、松岡が呼ばれることはありませんでした。(なお、久米、芥川、菊地の三人は生涯の親友でした。)

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疑問が残る点はほかにも多々あります。
まず松岡が晩年に書いた随筆で、久米の筆子への恋心ををひどく罵っている点です。分不応層な恋心だと呆れた。久米が筆子を追いかけまわすのを呆れて見ていた・・・など。そして自分に取って筆子は雲の上の女性だったとも。炬燵の中での例の手のひらの逢瀬については何も聞いていなかったのか。破船は読まなかったのか(松岡の随筆からすると、読んでいなかったようです。)破船の内容を知ろうともしなたのか。第一、婚約内定と言う形にまでなっていながら陰で結ばれていて、どうしてこうも悪く言えるのか。また、久米の作品のせいで子供まで悪く言われたと憤っていますが。それならばなぜ、すぐに反論しなかったか不思議です。父親として子を守るという行動は一切していません。そして数十年たってから愚痴めいた随筆を書いています。それらの行動の中でも一番不可解に思う事があります。松岡は破船から6年後、松岡側から見たこの事件を小説化しています。(憂鬱な愛人)その出版の際、話題性を狙った出版社の姿勢に松岡が怒った。版元を小さな出版社に変えてしまった。と娘さんが書き残しています。しかし久米の死後にこれほどの悪態を残すくらいならば、大きな出版社から大々的に宣伝して自分の言い分を世間に言えば良かったのではないでしょうか。

検証が必要な松岡の発言

最も、松岡が同随筆で悪く書いたのは久米だけではありません。
『ロマンロランと文通して有頂天になっていた成瀬』
『(トラブルが起こると)芥川は高みの見物』
『菊地の見合い写真は田舎臭い装丁』
・・・と、死人に口なしとばかりに過去の同級生たちを悪く書いています。
裕福な家のお坊ちゃんだった成瀬。そして言わずと知れた文豪、芥川。また、今は知られていませんが菊地、久米もまた大正時代は有名作家として世間を圧巻していました。(菊地は出版社を立ち上げ、実業家としても活躍)それに対して、夏目家の娘婿というブランドを除くと何もない松岡。そのことに対する屈折した思いを、私はここに見てしまいます。

その他にも芥川が『鼻』を夏目漱石に絶賛され時、久米が大変僻んだ…と言う記述があります。しかし先にも述べたように、久米と芥川はこの後も親友でした。鼻の件も、『妬ましいのも羨ましいのも一晩だけで、あとは当然友有難いとも思った』と久米自身が後の自伝的小説に書いています(風と月と)事実、同じ年に大学を卒業した2人(松岡は一年留年)は、ふらりと海辺の旅館を借り、そのまま二週間も一緒に過ごしています。芥川が鼻を絶賛されてから数か月後の事です。この二週間は芥川にとって大変思い出深いものであったらしく、10年近くも経ってから『海辺にて』と言う作品に書き残すほどでした。松岡の過去の記述には詳しい検証が必要かと思います。他にも時系列的にも怪しいものが多々あります。この松岡の人物像は留年の原因も含めて再検証されるべきかと思います。

筆子も最晩年まで久米を罵り続けたと娘さんの手記にあります。勝手に熱を上げたくせに、と。この夫婦の間に本当に愛があったのかは疑問です。意志的主体的に愛する女性だったら、母の傀儡になった事を反省こそすれ責任転嫁はしないと思います。

最近の久米悪評

最近の久米へのネットでの評価を見ると、惨憺たるもので唖然とします。
破船が書かれたのが四年後という点は完全無視。筆子に恋したきっかけも同様。久米が勝手に熱を上げたという事になっている。これでは久米があまりに気の毒な気です。こういう評価の陰には、松岡の評伝に久米が悪者に書かれているという点があるかと思います。(しかもこの評伝、松岡と交流があった人物が書いたという話を聞いたことがあります。この点も検証が必要でしょう。)そのほか、久米をさんざんにこき下ろした評伝も出ている。また一般の人で『松岡は素晴らしい。再評価されてほしい。』と言う反面で破船を読まずに批判している人に出会ったことがあります。(もっとも、松岡作品も読んでいないようですが)破船の内容について話すと、いきなり見せられたのが『久米の小説のせいで松岡の子供が悪く言われた』と言う内容の文章のコピーでした。日本人は可哀想な子供の話に弱いですから、それを繰り返すことで久米を悪者に持ってゆこうという意図なのでしょうか。久米を悪者にして得する人がいるのかもしれません。この件に関してはいくつかの仮説が立てられるかと思います。が、私はあえてここではそれを問いません。ただ、みっともないから辞めろ、とだけ言いたい。

松岡の作品を手に入る限りで読みましたが。松岡が小説家として不遇だったのは、実力相応の評価だったように思えてなりません。しかし私には読み取れなかった松岡文学の魅力があるかもしれない。それならば松岡作品を熟読し、その魅力を語りつぎ広めるべきでしょう。


参考文献  夏目家の印税帳(文庫版の後書き含む) 松岡譲                                    

夏目家のぬか味噌    漱石婦人は占いが好き   半藤茉莉子

破船 久米正雄         

文学講座『久米正雄と大正時代の作家たち』資料(2019年10月20日)



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