賢治2

宮沢賢治のアイスクリーム

永訣の朝という、悲痛にして美しい詩。今回はその最後の方に出てくる食べ物のお話です。

『今日のうちに 遠くへ行ってしまう わたくしの妹よ』

この、悲痛な言葉で始まる宮沢賢治の詩を愛読なさる方も多いかと思います。ご存知の通り、この詩は賢治さんの二つ下の妹が24歳という若さで結核で亡くなった日の出来事のスケッチ。
この詩の通り、妹トシさんは『あめゆじゅ とてちて けんじゃ』(あめゆきとってきてください という意味。けんじゃは、人に頼む時の方言だそうです)と兄に語り掛け、賢治さんは  ”曲がった鉄砲玉のように” 雪を入れるお茶碗をもって外に飛び出します。この兄妹のやりとりは、ほぼ事実でしょう。

ところでこの詩には、下記の一節がありますが。
どうかこれが/兜率の天の食(とそつのてんのじき)に/変わって
これが本によっては、
天上のアイスクリームに変わって
と記されていることもあり、混乱する方もいるようです。
どうして、二種類の記述があるのでしょうか。

推敲後に変更されたアイスクリームという言葉

まず、この詩の成り立ちから。
この詩『永訣の朝』は他の三部作『無声慟哭』『松の針』と共に、トシさんの死をきっかけに一気に書かれました。そしてこれらの詩は、当時賢治さんが参加していた文芸同人誌の『銅鑼』に掲載されます。この銅鑼での発表時では『天上のアイスクリーム』だったのです。
しかしその後、自費出版した詩集『春と修羅』に掲載するにあたって『兜率の天の食』と推敲されました。兜率の天とは、仏教の天界の1つとされる兜率天を詩的に表現したものでしょう。天上のアイスクリームでは、いささか詩情や格調に欠けるという思いがあったのかもしれません。
また、何より法華経の教えを体現する事を自分に課していた賢治さんにとっては、ここに仏教用語を盛り込むことはごく自然な事でもあったと思います。

病床の妹へのアイスクリーム

でもなぜ、第一稿ではアイスクリームだったのでしょうか?お茶碗に盛った雪からの連想では、かき氷や綿菓子でも良かった気もするのですが。おそらくこのアイスクリームにこそ、賢治さんの兄としての想いがこもってたのです。

賢治さんの父、正次郎氏は特に女子教育に熱心な人でした。教育こそが人格を高め、男性を支える立派な女性を育てるという信念だったのだそう。宮沢家は三姉妹でしたが、全員女学校を出ています。その中でも特に優秀だった長女のトシさんは東京の女学校(日本女子大)にまで進学。しかしながら、卒業間際に病を得て入院。その知らせを受けた宮沢家は、長男の賢治さんとその母の2人で駆け付けます。
大正7年の12月末の事でした。
賢治さんと母は近くに宿をとり、泊まり込みでトシさんの看病に当たります。年が明けた翌年の1月、病状が悪化したトシさんは食欲さえありません。現代のように点滴もない時代でした。熱のせいか口が渇くというトシさんの訴えに、母と兄が用意したのがアイスクリームだったのです。このアイスクリームは病院の機械で作られたもの。
材料は卵と牛乳、そして塩というものだったそうですから、現在のアイスクリームのようなデザートではなく本当に病人食だったのでしょう。
現代の医療では熱のある患者にアイスクリームを食べさせたりはしないと思うのですが、大正時代の医療はまだ未発達だったようです。

(写真は、牛乳と卵だけで作ったアイスクリーム。卵の黄身の色でほんのり黄色掛かっています。あえてご飯茶碗によそってみました。)


離れなかった病魔と兄のアイスクリーム

この後トシさんは回復。自宅に戻り、母校である花巻高等女学校の先生となります。
しかし病魔はトシさんから離れず。教員として働けたのは一年と数か月。やがて倒れて退職、自宅療養となります。当時としては死の病と恐れられた肺結核でした。

宮沢家は資産家だったこともあり、専門の看護師まで雇って手厚く看護します。しかしながら、先ほども述べたようにまだまだ医療の未発達だった時代でした。当時の看護師さんは『あの時代は結核治療の事がまだよく分かっていなかった。今の医療から考えると良くない治療の仕方もあった。トシさんには気の毒な事をしてしまった』と回顧しています。

そのトシさんが倒れている日々、兄である賢治さんは妹のためにアイスクリームを買い、溶けないようにと走って持ってゆく姿が目撃されているそうです。永訣の朝で茶碗に盛った雪を最初に天上のアイスクリームに例えたのは、このような経験が元になっているのではないかと思います。

現代の医療だったら、『天上のプディング(プリン)』だったかもしれません。

(写真は女学校教師時代のトシさん。きれいで優しいトシ先生は、生徒たちの憧れの的だったそうです。

余談・妹思いだった賢治兄さん

余談ですが。
賢治さんというと、上の妹トシさんとの絆が非常に強調されることが非常に多いかと思います。確かに最愛の妹であり、理解者でもあった事でしょう。
でも三姉妹の兄である ”賢治兄さん” は、二人の妹たちにも非常に優しかったそうです。トシさんが倒れているなか、上の妹のクニさんの結婚が決まります。相手方の都合で、どうしてもその時期に結婚したいという事だったそう。姉が倒れている時に…と花嫁御寮は化粧が崩れるほど泣きました。
それをやさしく慰め、嫁ぐ妹に幸せになれると声を掛けたのも、優しい賢治兄さんだったそうです。

トシさんは若くして儚い人になってしまったため、逆に賢治さんの心に残り続けましたが。これが他の妹さんたちでも、同じように悲しみ、そしてあの名作銀河鉄道の夜の着想の元となったように思えてなりません。


参考文献
宮沢賢治年譜(筑摩書房) 宮沢賢治詩集(筑摩書房) 校本宮沢賢治全集14巻  
隠された恋~若き賢治の修羅と恋(牧野 立雄 著/東京 れんが書房新社)
宮沢賢治の肖像(森 荘巳池 著/津軽書房) 叔父は賢治(宮沢 敦郎著/八重岳書房)

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