漱石山房との対話

数回にわたって関口安義氏の評伝・松岡譲を検証してみた。この評伝が決して正確なものではないことがお分かりいただけたかと思う。私は現在(2020年8月)東京都新宿区の漱石山房で行われている松岡譲展の監修者が、この関口氏であることに深い危機感を覚えている。以前も少し触れたが、ここのブログですでに松岡への持ち上げ記事を書いている。それだけならまだご愛敬だが、松岡を持ち上げるために久米を悪者にしているのだ。私は電話で漱石山房に問い合わせ、ブログ内容が事実と違うという事を話した。正直、担当者がいないとかなんとか体よく電話を切られることを覚悟の上だったが、意外にも電話口の人物はきちんと話を聞いてくれた。
が、最後の言葉がいけなかった。
その時の会話を再現しよう。

担当者「さっきからそうやっていろいろ言っていますが、これ(ブログの内容)は全部本に書いてあることなんですよ。」
私  「それはつまり、自分たちには責任がないという事ですか?」
担当者「いえ、そうではないのですが。」
私  「でも、今言ったことはそういう意味になりますよね?それともブログを書いたのもその本を書いた人なんですか?」
担当者「違いますが・・・」
私  「だったら、文責はやっぱり書いた本人にあるんじゃないのですか?」
担当者「関口さんという人が本を書いていて、その人が監修もしていて・・・」
私  「その関口さんという人が松岡譲の知人だと聞いた事があるのですが、それは本当ですか?」
担当者「知りません。」
私  「そういうことは、検証しないのですか?本に書いてあるからと監修も丸投げで、自分たちは関連する本の一冊も読まなくてよい。そういう考えでいるんですか?」

この後、私が『それでどうするのだ?』と促してようやく『間違っていたなら直す』という言質を得た。
私は、この担当者氏の言葉を返す返すも残念に思う。
少なくとも私は、稚拙ながらも論証を示して間違いを指摘したのだ。それに対して検証をせずに、本に書いてあるのだから、自分たちは何も考えなくてよい、と言う。という発想は、漱石山人が非常に忌み嫌うものではなかっただろうか。夏目漱石の名を冠した文学館で、こういうことが行われている事は由々しい問題だ。ましてやこの漱石山房、一般からの寄付を募って運営しているのだ。故郷納税も使える、と必死に宣伝している。(正直そこまでして自分の文学館が設立されることを、漱石山人は望むだろうか?)
この企画展を許可した新宿区には、猛省を促したい。

調べてみるとこの漱石山房の名誉館長というのが、松岡夫妻の娘、半藤茉莉子氏であった。この女性も父親と同様、夏目家ブランドで数冊の本を出しているが、その内容がひどい。本人も自覚しているようだが、素人の駄文以下で、夏目家ブランドが無かったらどこの出版社も手を出さなかっただろう文章だ。それはまだ良い(それでも、この人物をエッセイストと評するのはどうかと思うが。)
この人物、最初の本から久米を悪く書いており、そしてそれがエスカレートしてゆく。(しかも内容は不正確なものだ)やはり父が作家として売れなかったのは久米のせいだと主張するようになり、母がどれだけ久米を嫌っていたかと延々と描く。この人物は文章は下手だが、久米を批判するときだけは別人のようになる。語彙力、文章の構成力が別人のように向上するのだ。全編通してこのテンションで描くべきだと思うのだが。もう一つ疑問というか、不穏にさえ感じる箇所がある。茉莉子氏は母である筆子から延々と久米の悪口を聞かされ続けたという。そこで『昔はそんなものかと思っていたが、いつの間にか母の気持ちが私に乗り移った』とある。いかにも不自然な話だ。
本来ならば、一主婦で終わるはずの人生だっただろう。祖父の名で本が出せたとしても、一冊が限度だっただろう。一度もあった事のない祖父、漱石なのだ。しかしこの人物は久米を悪者にし、父を悲劇の主人公に仕立て、自分もまた久米のせいで被害にあったと主張すれば需要があることに気づいたようだ。素人の駄文以下の文章のエッセイは数冊出すことが叶い、講演会まで開いている。(その講演会とういのが、松岡譲の出身地である新潟県長岡市のペンクラブなのだ)自分を被害者ポジションにすることの上手さは、両親ゆずりか。しかしこれは、被害者ビジネスの手法ではないだろうか。漱石山人はこういう事もまた嫌ったはずである。この人物が同館の名誉館長に相応しいかどうか、もう一度考え直すべき問題であろう。

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