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関口安義著・評伝 松岡譲の検証 1


久米正雄という作家は、いつまで破船事件の事を言われ続けるのだろう。

一年ほど前にふとしたきっかけでこの作家に出会い、通俗小説というにはあまりに美しい文章と人物像の描写にひかれてファンになった。そしてその後、破船事件を知り、松岡譲の事を知る。あまりに久米が悪者になっているのが気の毒で、調べて知った事を以前noteに書いた。そしてこの件については、これ以上追及したく無かった。
この問題を問えば、松岡譲という人物の人間性に触れなければならないし、それは誉め言葉にはならない。この人物は、庇いようが無いのだ。孤立したのもわかる。しかし今さら松岡が悪者にされることなど、久米の御魂の望む事ではないだろう。前回も書いたが、久米は葛藤の後に松岡への友愛の念を持ち直す。そしてほぼ生涯を掛けて、交友の復興を願い続けていたのだ。

個人のブログやネット書評で相変わらず久米への罵詈雑言を見かけるし、その出処も想像はついていたが、個人の声だと放っておくことにしていた。私は久米正雄という作家の、一人の愛読者に過ぎない。

しかし、そうもいっていられない事が起こっていた。

漱石山房ブログと、検証が必要な関口氏の主張

2017年、東京都新宿区に『漱石山房』が開館した。夏目漱石の記念文学館だ。そこで今、(2020年8月現在)松岡譲展が開催されている。そこまでは良いが、問題はそのスタッフブログだ。相変らず久米が破船で松岡を悪者にされたために、松岡は文壇から黙殺されたと繰り返し書かれている。それを受けて大急ぎで書いたのが、前回のノートだ。
私はこの件で、漱石山房に電話問い合わせをした。すると、関口安義という人物の評伝・松岡譲をもとに書いており、同展の監修もまたこの人物だという。取り急ぎその本を探し、読んでみた。この人物は大学教授らしいが、大学教授というものはこれほどまでに出鱈目なものかと唖然とした。手始めに、同著に書かれている久米に関して検証してみようと思う。

検証が必要と思われる点を挙げる。

1)久米は蛍草で松岡との三角関係を暴露。さらに、松岡を悪者にした。
2)そのために松岡は文壇から孤立。法城を護る人々はベストセラーになったにもかかわらず、文壇から黙殺された。
3)久米は破船でも松岡を悪者にして世間の同情を買う。
4)破船に書かれた『炬燵の中で筆子が久米の手を握った』という描写は嘘である。
5)久米は失恋直後、松岡謙に漱石の兄の娘との橋渡しを頼んだ。

1つづつ検証してみよう。

1)久米は蛍草で松岡との三角関係を暴露。さらに、松岡を悪者にした。について

蛍草を読めば分かるが、この物語はあの恋愛事件とそれほど大きく重なるものはない。この評伝の著者である関口氏は『留学から帰国した主人公の婚約者が親友と恋仲になっていた』事をエビデンスに上げているが、この長い物語の中で、それだけで決めつけるのはどうかと思う。この物語は主人公の失恋を契機に進んでゆき、主人公は新しい恋人との死別、更に新しい恋を見つける。その中に仕事での挫折と再起、出会った人々と交流などを描いており、あの恋愛事件のほぼ影は見えない。関口氏が指摘するプロットも、実はもっと早くから戯曲で書かれていたものの焼き直しの可能性が高い。これは破船に出てくるが、久米は結核予防の啓蒙劇の戯曲を書いている。その戯曲の大まかな筋がこの蛍草とほぼ同じなのだ。また前回の記事で久米の大凶日記という随筆を取り上げたが、そこにも蛍草は敬愛する劇作家、ズーデルマンの影響を受けていることを上げ、あの恋愛事件と関連すると思われることをむしろ危惧している。そもそも、この蛍草の連載が始まったころは世間は久米と松岡、筆子との恋愛問題は知らなかったのだ。それをわざわざ新聞記事にして書かせたのは夏目家側で、そんなことをしなければこの問題は表ざたになることは無かった。大体、関口氏は大凶日記もこの評伝で取り上げておきながら、松岡側に都合の悪い話(この場合、夏目家リークの久米を中傷した新聞記事と、蛍草はこの恋愛問題と関係ないという久米の発言)の問題には一言も触れていない。これはどういう事だろうかと同氏に問いたい。
余談だが、主人公の婚約者を奪った元親友は、最後に人間味を見せて読者の共感を誘う。決して悪人として描かれてはいない。


・蛍草はあくまで久米の創作であり、松岡との恋愛問題とは無関係であること。(そういう先入観なしに読まれてほしい物語だ)

・プロットの原型はは恋愛問題が起こる前からあったこと。

・そもそも、夏目家が久米の中傷記事などを新聞にリークしなければ世間はこの問題自体を知らなかった事。

 私はこの三点を強調したい。

2)蛍草などで松岡が悪者に書かれたせいで、松岡は文壇から孤立。法城を護る人々はベストセラーになったにもかかわらず、文壇から黙殺された。について

この意見に関しては、噴飯ものと言うしかない。たかが恋愛問題で干されるなら、その程度の作家だという事ではないか。まず、関口氏が主張する『松岡が10年の沈黙を守った』点だが、法城を護る人々は、結婚後5年ほどで書かれている。第一、松岡が結婚後に小説を書かなかったのは、単に義母の鏡子未亡人が書かせなかっただけだ。この点については以前述べた。久米は何が何でも小説を書きたくており、鏡子未亡人に逆らった。しかし権威主義的な父に抑圧されて育った松岡にはその強さは無かった。それだけの話だ。

もう一つあげたいのが、法城を護る人々は本当にベストセラーだったのか、と云う点だ。関口氏は100版を数えたという。しかし実売数はどれくらいだったのだろう。それほどまでに売れた本ならば、現代でも古本が出回っていておかしくないのである。しかし松岡の次女は、この本が古本市場に滅多に出ないと書いている。漱石の本でさえ、古本が出回るのに奇妙な話だ。また、この本は松岡の知己が作った出版社『第一書房』から出たと第一号の本だと言うが、この出版社は赤字続きだったという。100版も重ね、それが売れたならいくら何でも赤字にはならないだろう。松岡だって戦後、雨漏りする家に転がり込むほどに困窮しなかったはずだ。(この話題は関口氏が同著に書いている)久米が墓参で指摘するように、『売れないのに売れていると見せかけて、宣伝して版を重ねている』というのが現状だったのだろう。そして、その売れない本を重版する費用はどこから出たのか、想像に難くない。
鏡子未亡人は、家を増改築するなどして亡き夫の遺産と印税を浪費した事で知られるが。実は、娘婿もまたこういう形で漱石が残した財産を浪費した。生前、ほとんど交流が無かった義父の遺産で自著の人気を偽装したのだ。文壇から黙殺されるのは当然だと言わざる得ない。

また、同氏が好意的に書いている宣伝方法にも疑問が残る。いかにも新聞記事のように見せかけた宣伝文なのだ。新聞で取り上げられたかのように見せかけた宣伝方法で、これもまた文壇から失笑を買う理由の1つだったのではないだろうか。それにしても、この派手な宣伝でさえ久米が松岡を悪者にしたからだと平然と主張する関口氏には呆れるより他無い。

この本が出た後も、どの雑誌からも依頼が来なかったのを久米のせいにするのは濡れ衣もいい所だろう。

・松岡が結婚後に執筆期間が途切れたのは久米と無関係

・法城を護る人々の実売数は検証されるべき

・法城を護る人々を出版したときの第一書房の経理も検証されるべき

・松岡が文壇から黙殺された事を久米の責任にするのは全体が見えていない

3)久米は破船でも松岡を悪者にして世間の同情を買う。について

久米が松岡を破船で悪者にしたという問題は、改めて検証する必要はないかと思う。破船で久米が松岡を悪者になどしていない事、むしろ大切な友人だと繰り返し(いささかしつこく感じるほど)強調している点は以前書いた。
次に、破船以外の作品でも松岡を悪者に書いたとあるが、関口氏はそのエビデンスを出していない。他の久米作品を読んでいるのだろうか。例えば蛍草に次いで発表された長編では『その美貌から過去に性犯罪にあった女性が、心の傷から男性全般を憎み、翻弄し破滅させてゆく』という姿を描いたもの。前回書いたファムファタルだ。松岡の陰は見当たらない。
その他の長編でも確かに親友との三角関係のモチーフは多いが(テーマというよりはモチーフだろう)、この恋愛問題と重なるものは見られない。かろうじて水の影くらいかと思うが、こちらも主人公の恋敵が悪者として描かれているわけではない。第一にして関口氏は、久米が松岡を悪者にしたという点を強調したいのか同書中で繰り返しているが、その引用はないのだ。なお、『和霊』で久米が『憎め!』と自分を鼓舞しているのを批難しているが、これはこの短編の全容を読み取れていないから出てくる言葉だろう。
例の新聞記事のせいで久米、松岡、筆子の三角関係が露呈してしまった(これは完全に夏目家の手落ちである。こんな事をしなければ、公にはならなかったのだ)この記事からか久米の周囲の人々は久米に同情し、松岡や筆子を憎んだ。芥川の妻、文は同性として筆子が許せないと松岡夫妻の結婚記事を切り刻む。名前は伏せられているが詩人の2人(室生犀星と萩原朔太郎だろうか?)もまた松岡を憎む。片方に至っては、酔った勢いで夏目家の門前で松岡譲を罵倒したという。しかし久米は、どこかで松岡譲を憎みきれない。赤の他人がここまで自分に寄り添ってくれているのに、どこかで松岡と友情をもって過ごした日々が忘れられない。だからこそ、憎め!と自分を鼓舞したのだ。疑問なのは、関口氏が本当に読み取れないのか、最初から久米を悪者にしたいから(そうでないと松岡が悪者になってしまうから)あえてこういう書き方で印象操作を狙ったのか、という問題だ。関口氏の意見を聞きたい。

・破船では、松岡が悪者に書かれていない

・和霊をはじめとした、他の久米作品でも松岡を悪者にはしていない

・夏目家リークの中傷記事を無視するなど、関口氏の主張は意図的に久米を悪者にして松岡を悲劇の主人公に仕立てている

残りの検証は、次回にする。

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